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寝ぼけまなこの雑文

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月18日(土)07時14分0秒
編集済
  とかく、この世は金次第である。金の有る無しが、人生の幸不幸を左右する。こんなことを浮かべたのは、金無しわが身の悲哀を感じているからである。十一月十八日(土曜日)、このところはいよいよ寒気が強まり始めている。この時世、金さえあれば防寒装置や防寒器具などあまたさまざまにある。ところが、わがパソコン部屋には、暖房装置および器具共に何もない。たった一つあるのは、熱電源には程遠い二輪の蛍光灯である。暖房装置や器具がなければ、衣類をまとって着ぶくれの防寒にすがるほかはない。このため私は、キャベツや玉ねぎみたいに衣類を重ねている。その挙句には見た目、ダルマのようにもなり、ミノムシみたいにもなっている。結局、私は寒気にはいたって弱虫である。世帯主である私は、家計の乏しさを分かりすぎている。このため私は、進化を続ける暖房装置や器具などの購入は、端(はな)から自制せざるを得ない。しかし人体は、幸いにも我慢という精神力を具備している。するとわが防寒は、もっぱら我慢に頼りきっているありさまである。我慢は、なさけなくも金無しわが身の代償である。寒気強まるとは言っても、いまだ序の口である。だから、この先の本格的な寒波到来にたいし、わが我慢は耐えられるかどうか? 危ぶまれるところでもある。こんなどうでもよいことに輪をかけて、次にはこんなことを書いている。私は、就寝時の枕元には電子辞書と携帯電話を置いている。二つの効用は、こうである。電子辞書の場合は、就寝前あるいは目覚めたときに浮かぶ曖昧(あいまい)な言葉をしっかりと確かめたり、復習するためである。これらの中には、あえて電子辞書を開くまでもない安易なことばもある。昨夜の就寝時の場合は、このことばだった。「寝相(ねぞう)」:(寝ているときの格好。寝姿。ねざま。ねずまい)。すなわち、寝相は幼稚園児にでも容易に分かることばである。就寝時の私は、無性にこのことばに惹かれるところがある。その理由は、これまた簡単幼稚である。実際には生前の母恋しさの縁(よすが)の一つとして、このことばが浮かぶのである。母は子どもの頃のわが寝相にたいし、「よう、まっすぐに寝るばいね!」と、言っていた。このときの私は、うれしくなっていた。それ以来このことばは、布団に入るたびに母の姿を懐かしくよみがえらせてくれている。携帯電話の効用は、目覚まし時計がわりである。目覚めて手に取れば、デジタル時刻に出合えるからである。おのずから携帯電話は、「ひぐらしの記」の執筆時間の到来の役割を担(にな)っている。「前田さん。何でもいいから書いてください!」と言われた、大沢さまのお言葉に甘えて、実の無い文章を書いてしまった。我慢はしているけれど現在のわが心身は、寒さと恥ずかしさでブルブルブルブル震えている。金があったら、震えは止まりそうである。
 

いたずら書き

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月17日(金)05時13分0秒
編集済
  十一月十七日(金曜日)、直前の私は掲示板上において、短く「休みます」と書いたばかりである。そう書かざるを得なかったのは早起きの夜長にあって、文章がまったく書けなかったからである。そして、文章を書けない理由をこれまた短く、「悩み多い人生の自縄自縛(じじょうじばく)をこうむり」と、書いた。そのとどめの理由には、「私は愚か者」、と書いた。まさしく、気違い沙汰丸出しの恥晒しの休養宣言だったのである。恥を忍んで休養を決めたかぎりは、もちろんこんななさけない文章など書くことなく、大っぴらに休んでいいはずである。確かに、休むと決めたかぎりは、心安んじて再び布団の中へもぐれば、こんな棚ぼたの僥倖(ぎょうこう)はない。なぜなら、不断の私は文章を書くことに呻吟(しんぎん)のし通しである。その挙句、心中には絶えず「もう書けない、もう止めたい」という、嵐が吹き荒れている。これまた、臆面もなくこんなことを書くのは恥の上塗りである。もちろんそれは、承知の助である。そして私は、あえていたずら書きを試みている。なぜなら、いたずら書きにわずかなご利益(りやく)があるからである。ご利益とは、一粒の精神安定剤みたいなものである。具体的には眠れないまま寝返りを繰り返すより、キーを叩いているほうが気は安まるかな! という思いである。すなわち、休んだからと言って心の安着は得られず、いや逆に気鬱は増幅するばかりである。そのうえ気鬱は、明日以降とどめなくなりそうな恐れがある。このため、その恐れを寸断するために、このいたずら書きを試みている。私はいたずら書きのご利益にすがっている愚か者である。いたずら書きの効用あって、気鬱はいくらか薄らいでいる。こんななさけない文章を書いて、投稿ボタンを押すかやめるか、思案投げ首である。「いたずら書き」と、表題を付けよう。  

休みます

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月17日(金)03時33分3秒
  壁時計の針は、夜中の3時過ぎをめぐっています。日々、揺れ動く精神。悩み多い人生の自縄自縛をこうむり、文章が書けません。追い打ちをかけて、夜長はいよいよ冷え込んでいます。寒気のせいではありません。私は愚か者です。休みます。  

季節の恵み

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月16日(木)06時30分47秒
  風が吹いても、雨が降っても、のどかに晴れても、この季節きわめて厄介(やっかい)なのは道路の掃除である。こんな嘆きや弱気にとらわれていると、一方でこの時季もわるくないことに気づいた。しかし、今さら気づいたことには、お粗末きわまりないところがある。春先や夏にかけては日々嘆き続けているのに、まるで「のど元過ぎれば熱さを忘れる」という、カルタの読み札の実践さがらである。気づいたこととは、この時季には庭中の草取りをしないで済む、という単純明快なことだった。たったこれだけのことだけれど、気づいてみるとこれは、確かに私には大きなプレゼント(褒美)である。庭中にたたずみこんなことを浮かべていると、あらためて物事には、良し悪しがあることを知得することともなった。イチョウやカエデ、あるいはケヤキの美しさに出合うには、敷き占める落ち葉の掃除を覚悟しなければならない。なぜなら、造花でもないかぎり花びらや枝葉は、つきっぱなしということはない。すなわち、枯れればおのずから落下する。このため、落下や掃除を嫌って植樹しなければ、もちろんそれらの恵む美的風景を堪能することはできない。この時季、道路を歩いていると、散乱している落ち葉や転がっている団栗(ドングリ)など、避けようもなく踏まなければならない。一方、新しいいのちをはぐくむには、枯れたり、朽ちたりしたものは、必定(ひつじょう)落とされる宿命にある。自然界および人間界、すなわち「生きとし生けるもの」のすべてに、自然淘汰や新陳代謝の掟(おきて)がある。そして、実際には人は、季節によってその現象に出遭うのである。しかし、季節にのほほんとしていては、もちろんその恩恵に浸ることはできない。愚鈍(ぐどん)な私は、草取りを免れるこの時期の恩恵を忘れかけていたのだった。落ち葉は日ごとに色鮮やかさを増して、のちしだいに色褪せてゆく。山の法面の烏瓜(カラスウリ)、零余子(ムカゴ)も落ち尽きた。柿の木はとうに実も葉っぱも落とし尽くし、すってんてんの枯れ木さながらである。これらに代わって、空き地に残された植栽には主(あるじ)いなくとも、山茶花(サザンカ)が健気(けなげ)に咲き始めている。ウグイスの鳴き声はとうに途絶えて、秋の虫たちを目にすることもない。しかし、目を凝らしさえしていれば、季節の恵みは尽きることはない。厭々しながらではあるけれど、道路の掃除のたびに感得する季節の恵みである。  

「七五三」につづるおとな社会の不誠実

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月15日(水)06時04分19秒
編集済
  きょうは日本社会がのどかに華やぐ、「七五三」(十一月十五日・水曜日)である。そのため、意図して明るい話題を浮かべて書きたいと、願っていた。ところが、きのう(十一月十四日・火曜日)、メディア(テレビや新聞など)を通して伝えられた二つの事柄について、書かずにはおれなくなっている。それら二つは、明るい話題とは言えない。実際にはわが腑に落ちず、当事者の不誠実と思えるものである。もちろんそれは、局外者である私の一方的な勘繰りにすぎないところでもある。一つは、いっとき巷間(こうかん)に旋風を巻き起こした、国政政党「希望の党」(小池百合子氏および玉木雄一郎氏共同代表)にかかわる顛末(てんまつ)である。具体的には、東京都知事と希望の党の代表を兼ねられていた、小池さんの突然の希望の党代表の辞任の弁である。きのうの小池さんの辞任の弁は、「希望の党は、フレッシュな人たちにお任せし、わたしは都政に専念したい」というものだった。この弁にかかわるわが勘繰りこうである。都政に専念したいのであってれば、もとから国政への野心はなくていいはずである。いや、選挙に勝ってさえいれば、辞める気はまったくなかったのであろう。結局は希望の党が選挙に負けて、さらにはそののちの展開が自分の思うようにはいかなくなり、都政専念を口実に辞任されたのであろう。このため、小池さんの辞任の弁におけるわが勘繰りは、自分勝手すなわち不誠実きわまりないものに思えている。もう一つは、わがファンとする大相撲において、これまた不誠実と勘繰らざるを得ないものがある。きのう、突如として横綱日馬富士が起こした傷害事件が大々的に報じられた。現在、大相撲は九州場所(福岡)が開催中である。実際の殴打傷害事件は、場所前の鳥取巡業中に起きたという。事件とは、日馬富士(伊勢ケ浜部屋)が貴ノ岩(貴乃花部屋)を殴り、傷を負わせたというものである。日馬富士と貴ノ岩は、共にモンゴル出身力士である。傷を負った貴ノ岩は、医師診断書を添えて、九州場所初日から休場している。一方、日馬富士は出場していた。ところが、日馬富士は初日と二日目に連敗した。きのうのテレビニュースは、一つには日馬富士の三日目からの休場を伝えた。もう一つには、伊勢ケ浜親方と日馬富士が連れ立って、貴乃花部屋へ赴き貴乃花親方への謝罪の様子を映し出した。実際には、出かける車の中の貴乃花親方にそっぽを向かれて、二人の謝罪は叶わなかった。ニュースや映像を通して私は、腑に落ちない思いをつのらせ、同時に不誠実さを見た思いにとらわれていた。腑に落ちないことでは、謝罪がなぜこんなに遅れたのだろうという、勘繰りだった。そして、不誠実なことでは日馬富士の突然の休場宣言は、謹慎というより初日・二日目と連敗し、先が思いやられるからだろうという、勘繰りだった。すなわち、連敗さえしなければ事件は頬かむりして、出場し続けたであろうという、勘繰りであった。結局、メディアから突如伝えられた小池さんの希望の党代表辞任の弁と、日馬富士が起こした傷害事件にからむ事後対応は、わが勘繰りとはいえきわめて不誠実に思えるものだったのである。晴れやかな「七五三」の日にあって、おとな社会の現実は、胡散臭(うさんくさ)いところがある。  

珍客

 投稿者:大沢  投稿日:2017年11月14日(火)09時05分19秒
編集済
  我が家の裏には隣家との境にコンクリの分厚い壁がそびえている。
その壁からは地下水が流れでており、玄関の方へビニールパイプを
通して水を引き込んで池を作ってある。
昨日、その壁沿いにある溝を掃除していたら、大きな沢ガニカニが
一匹出てきた。以前にも時々現れるが、今回は次々と出てきて、合計
五匹だった。大きいカニ、中くらいのカニ、小さいカニが三匹である。
私は、例のごとく溝掃除そっちのけでカニ取りに夢中になった。
カニは、プラスチックの容器で昨晩は過ごした。本日、カニを池の方
へ移して、ホームセンターで網を買って来て、逃げないように蓋を作
ろうと考えている。池は、沢ガニが住みやすいように赤玉土を底に敷
いて、小石を積んだ。インターネットで調べると、沢ガニは十年ぐらい
生きるそうだ。餌は雑食で何でも食べるという。とにかく飼ってみる
ことにした。
 

快い出会いを恵んだ「小春日和」

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月14日(火)06時45分2秒
  わざわざ紅葉狩りへ出かけるまでもなく、晩秋から初冬にかけての風景は、行きあたりばったりに楽しめる。きのう(十一月十三日・月曜日)の私は、バスの車窓から前方から後方へ流れゆく、イチョウ並木を眺めながらそう思った。車内が急に明るくなったな! と思ったら、バスはかたわらに立ち並ぶイチョウ並木のところを通っていたのである。私は慌ててイチョウの木を数えながら、黄色真っ盛りの並木に目を凝らし続けていた。数えてもそんなに多くはない、かたわらだけの並木道である。それにもかかわらず車内は、気づくほどに明るくなった。気を良くした私は、生涯学習の現場主義に基づいて、イチョウに当てられる漢字を浮かべてみた。幸いにも忘却を免れて、「銀杏、鴨脚樹、公孫樹」が浮かんで、ホッとした。バスは「地蔵前バス停」に着いて停まった。バス待ちの人の中から、卓球クラブのお仲間の本宮様が乗車された。本宮様は、前方に空いていた一人掛けの座席に腰を下ろされた。私と妻は、肩を並べてワンステップ高くなっている後方座席に座っていた。妻は、私に目配せをしてすぐに立って、本宮様の背後の空席へ移動した。こののち、本宮様は背後の妻へ振り返り、妻は前のめりになって、会話が続いていた。私は互いに気づき合った本宮様に会釈し、イチョウ並木が途切れるまで数えながら眺めていた。定期路線の江ノ電バスは、いくつかの停留所に停まったり、素通りを繰り返し、わが夫婦が下車する「松竹前バス停」へたどり着いた。この先バスの終点は、三つの停留所を挟んで大船駅前である。後方座席に座っていた私は、妻より先に立って、私へ振り向いた妻の下車を促した。そのとき、びっくり仰天! 妻と一緒に本宮様もまた腰を上げられて、同時に下車されたのである。私は、てっきり本宮様は終点まで行かれると、思っていたのである。三人そろって下車すると、私はあらためて挨拶を交わした。そのあと、本宮様は「イトーヨーカドー大船店」の方へ、私たちは「鎌倉芸術館」の方へと、分れた。双方の建物は、かつての「松竹大船撮影所」の跡地の一部に、一店舗(ブック・オフ)を挟んで、横並びに建っている。あえて一部と記したのは、跡地の多くには「鎌倉女子大」の校舎と校庭が占めているからである。「本宮さんも、『安田さんの絵』を観に行かれるのかね?」「そうだって。本宮さんは、買い物を先に済まされるそうよ」「そうか、やっぱり。偶然だけど、絵の展示はきょうが最終日だからね」わが夫婦は、目当ての鎌倉芸術館へ向かって歩いた。この日は、このところ続いていた木枯らしは止んで、麗らかな小春日和が訪れていた。そして、わが夫婦にすれば遅れてやってきた、のどかな芸術の秋への出合だった。出合を恵んでくださったのは、安田様所属の「スケッチの会」(水彩画)の展示だった。安田様は、現在は退(ひ)かれているけれど、長いあいだの卓球クラブの先輩お仲間である。鎌倉芸術館の正面玄関口に向かって歩いていると、コートを羽織られた後姿が安田様に見えた。かたわらの妻にたいし、「あのお方は、安田さんじゃないの?…」と、訊ねた。妻は、きょとんとして答えなかった。突然、安田様が立ち止まれた。玄関口の方から歩いて来られたご婦人が安田様に相対し、立ち止まれた。私たちと向き合うかたちになられたご婦人は、奥様だった。私は「やっぱり、安田さんだ!」と言って、速足で近づいた。お二人様と短く挨拶を交わし合って、奥様は遠ざかられた。安田様を交えた私たちは、スケッチの会所定の展示室へ入った。私は、自分と妻の名を受付の署名簿に記帳した。このあとは安田様とご一緒に、順次展示の絵を鑑賞した。この日の出展は一人当たり四枚で、ギャラリーいっぱいに展示されていた。私は、絵にはとんと疎(うと)いけれど、児童のおりの体験から飛びっきり水彩画を好むところがある。いや、実際にもこれまでの私は、水彩画だけにしか馴染んでこなかったのである。しかし、たまに油絵を観ることはある。それでも、ギラギラする油絵より、ほんわかとなる水彩画のほうが心地良く感じられて、やはり好きである。好きな水彩画へ出合えるのは、もちろん安田様と出会えたおかげである。特に、安田様の絵は優しいお人柄を丸写しにして、これぞ水彩画と思えるにほのぼの感に浸れるところがある。私に輪をかけて妻は、安田様の絵がお気に入りで、大のファンである。このこともあって安田様の絵に対峙し、説明に聞き入るときの妻は、不断の妻とは見違えるほどに酔いしれた嬉々(きき)とした姿である。もちろん、私たち素人鑑賞による巧拙の論評など今や論外で、すべての作品がプロの腕前であり、出色の出来栄えである。私たちは心地良く鑑賞を終えて、ギャラリーをあとにした。すると、入れ替わるようにして、本宮様が鎌倉芸術館内に到着された。妻は顔を近づけて、わが難聴の耳にこう告げたのである。「イトーヨーカドーは、きょうは配達日だから、本宮さんは買い物を先に済まされたのよ」。小春日和は、暑さに耐えられずわがコートを脱ぎ去った。おまけに鑑賞後の興趣に顔がほてり、私はそう好きでもないけれど、冷たい「そば」でもいいかなと、思った。一方妻は、「そば人間」とも思えるほどに、そばが大好物である。近くの蕎麦屋の看板を見て、「そば、食べようか」と、言った。「パパは、そばでいいの?」「うん、いいよ」このときの私の気分は、仲の良い人様との出会いに恵まれて、快く解(ほぐ)れていたのである。  

凡庸の苦しみ

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月13日(月)05時30分6秒
編集済
  早く目覚めて、そのまま起き出してきた夜長にあって、文章が何も浮かばずつらい夜となっている。夜長の夜明けまでは、まだたっぷりと時を残している。早起きは三文の得と言われるけれど、一厘の得にもならない早起きだったようである。このため、無理やり得探しを試みれば、静寂(しじま)の享受くらいである。このところの寒気の遠のきに恵まれて、幸いにも現在は、寒さに身震いすることもない夜のたたずまいである。こんなどうでもよいことを書き出しては、実際にも何の得にもならない。文章を書けないつらさは、わが身に余るところがある。そうであれば書かずに、寝床へとんぼ返りをすれば済むことではある。しかし、こんな心境で再び寝床へ入ったところで場所を変えて、悶々とすることには変わりない。もちろん、安眠にありつけることなどあり得なく、挙句には悪夢にさえ脅かされることともなる。文章を書くにはきわめて好都合の夜長は、凡庸の私には飛んでもない苦痛をもたらしている。こんな身も蓋もないことを吐露し、そして文章に著して十年余も継続したところで、人様に褒められるところはまったくない。もちろん、ちょっぴりでも自惚れるところもない。加えてつらいのは、こんな状態がきょう(十一月十三日・月曜日)かぎりではなく、この先ずっと続きそうだからである。現在の私はテストの答案用紙を前において、まったく答えを書けない状態さながらである。四つの設問から一つの正答を〇付けで選ぶテストであれば、首を垂れ鉛筆の芯を舐めながら、あてずっぽうに〇を付けることはできる。ところが、穴埋めや文章で答えることを求められるテストであれば、万事休すである。現在のわが状態は、それ同様である。ちょうど一週間後の十一月二十日(月曜日)には、胃カメラによる再検査が予定されている。だからと言って現在の私は、それに怯(おび)えていることはない。いや、心身は、すこぶる健(すこ)やかな状態にある。それでも文章が書けないのは、わが生来の凡庸のせいである。だから、救いようなくいっそうつらいのである。結局、こんな身も蓋もない文章を十年余も書き続けてきたことは、罪作りだったのかもしれない。夜長を味方にできないわが凡庸は、とことん恨めしいかぎりである。  

校正作業

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月12日(日)07時02分18秒
  十一月十二日(日曜日)、現在壁時計の針は夜明け前の五時近くをめぐっている。しかし、初冬の夜長にあって、雨戸を閉めない窓ガラスを通して見る外気は、いまだ真っ暗闇である。まったく明るさがないことには、きょうの天候が危ぶまれるところである。そのうえ、両耳にはときおり風の音が聞こえてくる。難聴の耳に聞こえることでは、風の吹きようはかなり強いのであろう。確かに、このところの鎌倉地方には、ほぼ連日にわたり初冬特有の木枯らしが吹き荒れている。ところが、寒気はまったくない。その証しに、気温は連日高めでしのぎ易さが続いている。本当であれば、木枯らしに見舞われれば寒気にぶるぶると震えて、心身に堪えるところである。このことでは、この矛盾は異常気象の範疇(はんちゅう)であろうか。こんな中にあって現在のわが気分は、うんざり感に陥っている。そしてそれは、自業自得のせいである。実際には、自作文の校正作業にともなううんざり感である。おととい(十一月十日・金曜日)、大沢さまから「ひぐらしの記」第六十七号『小さな平和』編の単行本一冊と、校正用版下(原稿)が送られてきた。このため今朝の私は、目覚めて起き出すやいなや校正作業にとりかかった。作業開始は、夜中の一時過ぎからだった。そののち、いまだに完結をみないままに中断し、この文章を書き始めている。自作文の校正作業とはあたりまえのことだけれど、みずからしでかした誤り(ミス)の修復作業である。もっと端的に言えば、まなこを大きく見開いてのあら探しである。もちろん、ミスには大小ある。さらには、肝心要の文章自体の文脈の乱れもある。そのうえ、最も身に堪えるものでは、走り書きや殴り書きから生じる文章自体の拙劣さがある。これらのことから校正作業は、心身に堪えて疲労困憊(ひろうこんぱい)に陥る最たるものの一つである。それでも、避けて通れないのは必要悪と言える作業だからである。校正作業さ中にあって最もつらい現実は、やはり日々代り映えしない文章を再び読まざるを得ないことである。中でも、ひぐらしの記の文章にあっては、日々気象のことばかり書いてるなあ…という、自己嫌悪に苛(さいな)まれることである。「こう書けば、ああ書けば、よかった」という後悔は、もはや後の祭りである。人の世には「逃(の)がした魚は大きい」ということわざがる。すると、校正作業にも一脈これに通ずるところがある。すなわち、身の程知らずみずからの無能力は棚に上げて、もっと上手に書けたのではないか、という思いにさらされることもある。結局、ミスやあら探しと共に、叶わぬあれやこれやが浮かぶ校正作業は、私には疲労困憊を招くとてつもなくつらいところがある。ところが、私のつらさは、おのずからそれをととのえてくださる大沢さまの煩雑さへ及ぶことになる。確かに、校正作業は自業自得とはいえ気鬱の根源である。一方では六十七集も編めたことには、果報に浸れずにはおれないところがある。そうであれば、もっと嬉々(きき)として校正作業をしなければ罰が当たりそうである。夜明けの空は、のどかな冬晴れである。またもや、天候のことを書いてしまった。あな、恨めしや!  

連チャン通院

 投稿者:前田  投稿日:2017年11月11日(土)05時52分9秒
  100円ショップで、来年用の卓上カレンダーを買ってきた。しかし、人生のカウントダウンさ中にあっては、ウキウキする気分にはまったくなれない。それどころか、来年と言わずこの先予想される厭(いや)なことが次々に浮かんでくる。私はおとといときのうの二日にかけて、しばらく鳴りを潜めていた通院の連チャンを強いられた。出かけた病院は、どちらも「大船中央病院」(鎌倉市)である。おととい(十一月九日・木曜日)の場合は、整形外科における予約なし飛び込みの外来患者であった。十日ほど前に、右肘の異様な膨らみに驚いたのである。それほど痛みも痒くはないけれど、風船玉みたいにふわふわとまん丸く、膨らんでいたのに気づいて、びっくり仰天したのである。そののち、経過を見ていたけれど、膨らみはそのときあたりがピークで、しだいに小さくなり始めた。だからと言って収まるわけではなく、(なんだろう?……)と、いくぶん懸念していた。この間、妻は鎌倉市定例の年に一度の定期健診に行った。受診医院は、住宅内に一院存在する「左近充医院」である。当院は、わが夫婦の不断の係り医院である。そんな気安さもあって私は、受付窓口のスタッフ女性にたいし、こうお訊ねした。「妻の診察時に、一緒に診察室へ入ってもいいでしょうか…」。同時に、私には見えみえの魂胆があった。そのため、自分の受診券と保険証もまた、妻同様にスタッフへ差し出した。妻の受診が済むやいなやかたわらで、私は主治医にたいし患部の肘をむき出しにした。そして、症状を訴えて診察をお願いした。それには、予(あらかじ)め自己診断がともなっていた。私はこう言った。「よく、膝に水がたまると、聞いたことがあります。肘に水がたまっているのでしょうか?」。すると、主治医の診断結果は、こうだった。「水はこのようにはたまりません。脂肪の塊でしょう」「そうですか。それじゃ、仕方ないですね。私は水でもたまったのかな? と、思っていました」。もともと肘の患部を内科の先生に診てもらうことは厚顔の至りであり、はじめからそうあてにしていたものではなかった。言うなれば、妻の同行に便乗した「行き掛けの駄賃」みたいなものであった。こんな心構えで診察をお願いすること自体、恥じ入るべきであり、そのため主治医の診たての誤りに不平不満をつのらせることはご法度(はっと)である。大船中央病院の整形外科の診察室に入った。若い男性医師は初診(初対面)にもかかわらず、医師らしくないほどに愛想(あいそ)がよかった。萎縮していた私の気分は、一遍に解(ほぐ)れた。医師は、手際よく三分間の診察と処置をされた。「水がたまっています。放っておいてもいいけど、せっかくだから抜きますか?」「先生、抜いてください」。先生は、女性看護師が用意された注射器の針を膨らみに刺された。私は、注射器に吸い上がる黄色に色付いた水をじっと眺めていた。「水は抜きました。何も、心配要りません」「ありがとうございました。先生、もう診察にはこなくていいんですね」「いいです。心配ありません」。かたわらの看護師がことばを添えられた。「今晩は、お風呂には入らないでください」「わかりました」きわめて、効果覿面(こうかてきめん)の三分間医療だった。おとといに続いてきのう通院したのは、こんな理由だった。おとといの通院時において、窓口の男性スタッフが疑念を正されたのである。「九月にこちらへ見えましたか?」「いいえ」「予約日と記されていますが、来られていないですよね?」「はい。来てはいません。九月頃とは聞いていましたが、予約日になっていたとは知りませんでした。吉田先生は、あすは診察日になっていますでしょうか?……」「午前、午後とも診察予定日になっています」「わかりました。ありがとうございました」きのうの私は、朝早くわが家を出て、八時半過ぎに当病院へ着いた。受付窓口で、手早く所定の手続きを済ませた。受診外来は、勝手知った消化器科である。指定の担当医師は、吉田先生である。手渡された一枚文の中には、「予約日九月一日。相談事のため」と、記されていたのである。私は九月頃とは思っていた。しかし、予約日が決められていたことは、このときはじめて知ったのである。実際のところ私は、九月頃の再診の言い渡しを厭々しながら先送りにしていたのである。このためきのうの私は、まずは予約日をほったらかしにしていた詫びを入れる思いに駆られていた。相談事とは、ことし四月の内視鏡検査(大腸カメラと胃カメラ)のおり、十二指腸に鮮明な病巣(傷痕)が写し出されていたからである。確かに、そのおりの先生は、「九月頃にもう一度、検査をしてみましょう」と、言われていたのである。私は身を縮めて恐るおそる診察室に入った。名を告げて、すぐさま予約日の失念を何度も詫びた。吉田先生は、思いのほかニコニコ顔であった。次には、先生は大きく病巣(傷痕)の目立つ映像を示されて、四月同様の説明を繰り返された。もはや私は、俎板(まないた)の鯉の気分であり、忠実に吉田先生のことばに従った。そして、内視鏡の再検査(胃カメラ)は十一月二十日(月曜日)に、検査後の説明日は一週間後の十一月二十七日(月曜日)と、指定されたのである。共に、わが難聴の耳にも明確に聞こえた予約日となったのである。病院を出るとわが気分は、気に懸けていた詫びを入れたことでルンルンと躍っていた。しかし、わがルンルン気分は、二週間余りの期限付きになるかもしれない。来年の卓上カレンダーは、「安物買いの銭失い」、いやまったくの不要になるのであろうか? 確かに、人生の賞味期限はとっくに切れて、現在は消費期限すれすれである。  

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