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出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)れ

 投稿者:前田  投稿日:2017年 6月22日(木)05時54分25秒
  このところのテレビニュースが伝える話題にあってへそ曲がりの私は、パンダの赤ちゃん誕生にかかわる報道の仰々(ぎょうぎょう)しさには、かなりうんざりしている。しかしながら、将棋界の藤井四段の快進撃ぶりを伝えるニュースには、もちろんうんざりするところはまったくない。このことは、動物と人間の違いがもたらしものであろう。確かに、双方共に快挙とは言え、もともと双方の出来事を比較すること自体、浅はかな愚の骨頂である。<藤井四段、28連勝で最多タイ…終盤読み切る> (2017年6月21日20時42分 読売新聞オンライン)。「将棋の最年少棋士、藤井聡太四段(14)は21日、大阪市の関西将棋会館で行われた王将戦予選で澤田真吾六段(25)を99手で破り、自身の持つデビュー以来の公式戦連勝記録を『28』に更新、神谷広志八段(56)が持つ歴代最多連勝記録に30年ぶりに並んだ。次戦は、26日に東京・将棋会館で行われる竜王戦本戦(決勝トーナメント)1回戦で、増田康宏四段(19)と対局。新記録となる29連勝に挑む。午前10時に始まったこの日の対局、中盤の攻防で優位に立った藤井四段が得意の終盤で長手数の詰みを読み切って、午後4時47分、勝ちを収めた。澤田六段は今月2日の棋王戦予選でも対戦し、苦戦の末に勝利を収めた相手だった。藤井四段は愛知県瀬戸市在住。昨年10月、14歳2か月でプロ入りし、加藤一二三九段が持っていた史上最年少記録(14歳7か月)を62年ぶりに更新した」。報道によれば、藤井四段は5歳の時から将棋を指し始めたという。まさしく、棋界の神童、怪童あらわるである。そして現在は、いまだ中学生の美少年である。このこともあってわが胸中には、すかさず三つの成句が浮かんだ。いずれも、ごくありふれた成句だけれど、生涯学習の現場主義にしたがって、電子辞書を開いておさらいを試みている。【青は藍より出でて、藍より青し、氷は水これをなして、水より寒し】(出典:荀子)。青色の染料は藍(タデ科の一年草)からとるが、その青は原料の藍よりもずっと青いという意から、弟子が先生の学識や技量をこえることをいう。氷もまた水よりできて、水よりつめたいという意である。「学問・技芸いずれの分野でも、弟子が師の業績をこえることをいう。(出藍の誉れ)」。【少年よ大志を抱け】(出典:札幌農学校(現在北海道大学農学部)の初代教頭だったアメリカの教育家W・S・クラークが、学生との別れに際し述べたということば、Boys、be ambitious for the attainment of all that a man ought to be。(少年よ、かくあらんと思うすべてのことを達成するために貪欲であれ)。「のびのびと大志(大望・野心)をもてと若者を励まして使う。【青雲の志】(出典:唐の王勃の縢王閣の序):青雲は、よく晴れた空にかかる青みが買った雲。「立身出世をして高い地位につこうとする志」。三つの成句の中では、「青雲の志」だけは、藤井四段には違和感がある。しかし、「出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)れ」と「少年よ大志を抱け」は、ずばり美少年・藤井四段にふさわしい成句である。そして、現在の藤井四段は、この成句をみずから実践中である。藤井四段の活躍は、突如日本社会に訪れている朗報である。いくらマスメデイアが騒ぎ立てても、私にはまったく不快感はない。  

私と癌(八十一)田端信 作

 投稿者:大沢  投稿日:2017年 6月22日(木)05時31分26秒
   そのとき一人の男がぼくの隣りに坐った。一番前列に坐
っていたのはぼくだけである。広く席はあいており、わざ
わざぼくの隣りに坐る必要はない。不審に思いながらも、
視線を向けることはしなかった。だが、男の方はときどき
こちらへ覗きこむようにする。ついにぼくは男の方へ視線
を向けたが、ハッとなった。相手側の弁護士だったからで
ある。ぼくと承知でわざわざ隣りに坐ったのは、どんな魂
胆だろうか。驚いているぼくを尻目に、彼はにやにやしな
がら独言のように言った。
「素人にしては度胸があるよ。最初はどこかの弁護士かと
思ったんだがね」
「まさか、答弁書や準備書面を見ればわかる筈ですよ」
 相手の話題や口調から、ぼくの警戒心も幾分ほぐれてい
た。
「たまにそんな人間がいても、いざ裁判が始まると、あわ
てて弁護士を立てるんだよな。しかし、カルテやレセプト
の提出を求めるなんて、とんでもないことを持ち出したも
のだな」
「どうしてですか」
「そんなものいくら裁判官が職権で出させようとしても、
プライバシーの問題から病院や支払い基金が提出する筈は
ないんだよ」
 彼はいくらか憐れむような口調で言った。
「そんなものですかね」
 ぼくは却下を裁判官の判断とばかり思っていたが、そん
な壁が立ちふさがっていたのだ。
「理論としては正当かもしれないが、裁判では通じないん
だよ。弁護士がそんなことを持ち出すと赤恥をかくところ
だが、素人ならいいだろう」
「難かしいですね」
「君は刑事や検事の前で相当粘ったそうじゃないか。その
手でやればいいんだ。裁判とは常識に徹することだよ。君
は法律や裁判の慣行にこだわろうとするから難かしくなる
んだ」
 警察や検察のことも、原告を通じて筒抜けになっている
ようだった。だが、ぼくの胸に重く響いたのは、常識に徹
するという彼の言葉だった。
 

私と癌(八十)田端信 作

 投稿者:大沢  投稿日:2017年 6月21日(水)06時10分10秒
   法廷のある三階の廊下は南向きで、明るい陽光が射しこ
んでいる。そこの掲示板に裁判当事者の氏名が書きこんで
あった。原告、被告ともに同姓の男女の名前が出ている。
離婚かそれに関連した係争であろう。
 ドアを開けると縦に細長い法廷で、傍聴席の入口になっ
ている。横にも並んだ何列かの木の椅子に、二十人ばかり
の人間が坐っていた。傍聴人というより、原告、被告、弁
護士といった裁判当事者であろう。右側の細い通路を行く
と、低い観音開きのドアがあって受付である。
 だが、相手や弁護士もまだ出てきていないようだ。記名
をすますと傍聴席へ戻り、一番前の正面に腰を下ろした。
そして、今日はどのような出方をするか、考え込んでいた
がこれという方法も思いつかない。まさか相手側は請求額
の三百万を全額取れると思っていない筈だ。大体の裁判の
相場を考えての金額である。裁判官や弁護士には判例とし
てその予想がついているのだ。しかし、ぼくにはそれが皆
目わからない。彼等の掌の上で踊らされているようなもの
である。
 しかし、弁護士がいないからといって、そんなに不当な
判決が出るとも思えなかった。このまま成行に任せるべき
だろうか。だが、素寒貧にとってはその半分の百五十万の
線が出たとしても、容易な金額ではなかった。
 そんな堂々めぐりの中に、二十二日間拘留されたときの
刑事係長や、担当検事の顔が浮かんでくる。諦めていたら
少くとも罰金刑か、起訴されていた筈である。二十二日間
拘留されながら処分保留になったのは、困難な中にも方法
を尽くしたからだ。まして、裁判は一方的なものではない。
 

「夏至」

 投稿者:前田  投稿日:2017年 6月21日(水)05時00分56秒
  「歳月のめぐりは速い」。このフレーズは、「ひぐらしの記」を書くようになって以来、わが悩ましい常套句の筆頭になっている。もちろんわが命は、歳月のめぐりに合わせて縮んでゆく。命に永遠はなく、いずれは枯れ木や枯葉のように朽ち尽きる。山の法面のアジサイは、今を盛りにして見栄え良く色づいている。ところが、あと半月もすれば尽きて、醜態をさらけ出す。人の命、花のいのち、ことごとく時のめぐりには逆らえない。これほど、宿命という言葉がふさわしいものはない。そうであれば時の速めぐりなど忘却し、いっときいっときに心を和ませることこそ、最良の処世術なのであろう。ところがこれは、まさしく「言うは易く、行うは難し」である。特に、マイナス思考いちじるしい私の場合は、大空の雲をつかむようなものであり、実際にはありえない。きょうは、1年の中で半年の経過をカレンダー上で示される「夏至」(6月21日・水曜日)である。夏至の気象上の定義には、昼間の時間が最も長く、そのぶん逆に夜間が最も短いと言われている。夏至を迎えてわが胸中に浮かぶのは、先ずは時の速めぐり(感)である。具体的にはこの先、梅雨が明け、夏が来て、秋が訪れ、冬へ向かう季節への怯(おび)えである。もっと具体的には、半年先に冬がひかえているからである。確かに、夏至にあって冬に怯えるのは、文字どおり馬鹿げた愚の骨頂である。もちろん、いっときいっときに心を和ませ、時の経過を愉しむことなど、空念仏で望むべくもない。やはり私は、根っから「身から出た錆」にとりつかれた小器なのである。こんなこともあって、大沢さまの明るいご投稿文にさずかるたびにわが心は、和らぎ、癒され、ほのぼの感に浸れるのである。現在、季節は鬱陶しい梅雨の最中にある。すると、この鬱陶しさを払ってくださるかのように、このところの掲示板上には、大沢さまのご投稿文にあずかっている。それらのなかで現在、私はきのう(6月20日・火曜日)のご投稿文を「ひぐらしの記」への転載を試みている。<私の畑>(ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2017年 6月20日・火曜日)。「毎週末、古河(茨城県)の実家(望月窯)で過ごすようになって、我が家(和光市)のベランダの畑は、ちょっと手抜きの感がある。それでも昨年の秋には生姜、絹さや、ツタンカーメンのエンドウ豆、今年の春先にはサニーレタスなど植えた。そして、夏野菜のスイカ、トマト、ナス、キュウリの苗を買った。今年はトマトがうまくいかず、先週末に買い直した。ナスとキュウリは数本取れた。スイカは、いつもながら一個実をつけて、大分大きくなった。望月窯の畑仕事が忙しく、ベランダの畑は目の保養ぐらいのつもりである。それでも、花が咲き、実になるとわくわくする。水やりが大変である。(3枚の写真付き)」。わが机上の地球儀のようにまん丸の、スイカの育ちぐあいに目を奪われ、心を癒された証しとして、私はひぐらしの記へ転載せずにはおれなかったのである。大沢さまの恵みにさずかり私は、夏至にあっていっとき、時のめぐりの賞味にありつけたのである。確かに、時のめぐりには逆らえない。そうであれば、いっときいっときを愉しみ、賞味するような大らかな気持ちを持ちたいところはある。ちょっぴりだけでも、大沢さまにあやかりたいところである。器の違いがうらめしい!  

私の畑

 投稿者:大沢  投稿日:2017年 6月20日(火)11時41分14秒
編集済
   毎週末古河の実家(望月窯)で過ごすようになって、
我が家(和光市)のベランダの畑は、ちょっと手抜きの
感がある。それでも昨年の秋には生姜、絹さや、ツタン
カーメンのエンドウ豆、今年の春先にはサニーレタスなど
植えた。そして、夏野菜のスイカ、トマト、ナス、キュウリ
の苗を買った。今年はトマトがうまくいかず、先週末に
買い直した。ナスとキュウリは数本取れた。スイカは、
いつもながら一個実をつけて、大分大きくなった。
 望月窯の畑仕事が忙しく、ベランダの畑は目の保養ぐらい
のつもりである。それでも、花が咲き、実になるとわくわく
する。水やりが大変である。
 

私と癌(七十九)田端信 作

 投稿者:大沢  投稿日:2017年 6月20日(火)06時45分11秒
   しかし、そのあとに続く民事裁判が問題だった。どこを
押し、どこで引けばよいのか、さっぱり要領を得ない。全
くノレンと腕押ししているようなものである。弁護士がい
ようがいまいが、そのポイントがわかれば対策の練りよう
もあるが、暗闇の中で手探りしているようなものだった。
 ぼくとしては処分保留となって釈放されたこと、拘留中
に女房が支払った四十万円の内容が究明できれば、糸口が
つかめると思っていた。しかし、裁判所からカルテ、レセ
プトの写しの提出要求まで却下されたのであるから、こち
らの作戦が封じられたということだ。先方が有利になった
ということである。せめて判例でもわかれば一応の基準が
つかめるが、これも素人にとっては、藪の中である。
 先方は弁護士だから、大体の線はわかっている筈だ。三
百万と請求を出したところを見ると、百五十万程度が相場
かもしれない。このような民事の判決では、足して二で割
るような結果が多かった。といっても簡単に払えるような
金額ではないが、多少気持が楽になってきた。
 そのうちにどうでもいいや、という気になってきた。持
ち前の楽観主義が頭をもたげてきたのである。不当な判決
が出たら、高裁へ控訴すればよい。それが駄目だったら、
法律問題に絡ませて最高裁まで行く方法もある。とにかく
地裁段階では出たとこ勝負で行こう。そのうち進行に従っ
て雰囲気にも馴れ、だんだん勝手がわかってくるだろう。
しかし、準備書面だけは出しておこうと思った。裁判長の
却下にこだわったが、再度むし返すことはできないし、心
情問題に発展すれば不利である。
 そこで遠廻しに補足する程度にした。途中まで書いた時、
書留郵便である。受け取ってみると、先方の準備書面だっ
た。三通書いて一通は本人控えとし、二通は裁判所へ提出
する。そのうち一通は裁判長、一通は相手方へ送達される
のである。
 早速、封を切って読んだが、新しい事実はどこにも見ら
れない。訴状を更に抽象化し、高圧的な表現に置き換えた
だけである。弁護士のいない足元を見透かした態度だった。
 こんな場合、双方に弁護士がいると、手の内を見透かさ
れまいと慎重な態度をとる。しかし、弁護士がいないと一
挙に押し出してくれる。それがないのは、相手も手詰り状
態だと思った。ぼくは読み終ってほっとした気持である。
 

キュウリ、ナス、トマト、

 投稿者:前田  投稿日:2017年 6月20日(火)06時10分20秒
編集済
  狭小なわが家の庭の中にしばしたたずんでいると、胸中にはこんなことが浮かんでいた。地面に畝づくりをすれば畑になる。野原をととのえれば原っぱになる。手を加えずほったらかしにすれば草むらになる。(わが庭中は、草むらだな!)。畝づくりなどしようもなく、草むらの中にモグラの穴のような穴ぽこを作り、手植えしたキュウリ、ナス、トマトは、健気(けなげ)に花を咲かせて、今では実りへ移り始めている。実りの先頭を切って、私は1本のキュウリを捥(も)いだ。大げさに言えば、稔(みの)りの収穫である。長く、青緑きわめて濃く、白い棘(とげ)が指先に刺さるかのように瑞々しく、かつ手にずしりと重く、出来栄えは市販のものに遜色ない。私は捥いだばかりのキュウリをいつくしみながら、夕暮れの遅い家の中に入った。そして、茶の間に居た妻へ向かって見せぶらかすように、にこやかに「1本、2000円のキュウリだよ!」と、言った。出会いがしらの妻は驚いた。たちまち、満面笑みまみれになり、「キュウリ、生っていたの? パパ、すごいじゃないの……」と、言った。再び私は、「これ、2000円のキュウリだよ。生っていたのを、知らなかったの?」と、言った。2000円にこだわっていたのは、3品の苗の購入にしめて2000円くらいはたいていたからである。キュウリは1本だけで実らず、そしてナスとトマトは花だけで実らず、こののち3品共に立ち枯れでもすれば、確かに1本2000円のキュウリとなる。もちろん私は、苗の購入のときからコスト(原価)割れは覚悟していた。コスト割れを補うものでは、3品にちなんで生前の母を偲ぶ縁(よすが)と郷愁だ! と、割り切っていた。一方でそのときの私は、収穫の喜びをまったく放擲(ほうてき)していたわけでもない。その証しには妻に向かって、私はあえてこんな言葉を言い放っていた。「ことしは、もうキュウリ、ナス、トマトは植えないよ。植えても、リスやカラスに捕られて、イライラするばかりで、収穫にはありつけないよ!」「パパってバカねー。生ってるの眺めるだけでも、とてもいいわ。茶の間から眺めるの、わたし好きなのよ! パパ、苗を買いましょうよ」「おれも好きだよ。だけど、途中でリスやカラスにやられると、イライラするよ。苗を買っても、植えるのはおればかりだよ。そのうえ、庭の地中は岩盤だらけで、支柱も立ちにくいよ。100円ショップから市販の支柱を買っても、また苗くらいの金がかかるよ」「それくらい、いいじゃないの。パパ、苗を買って、植えましょうよ! 植えれば楽しめるのよ!」「買って植え育てるのは、おればかりじゃないか。おれは買わないよ」「パパ。買いましょうよ」こういういきさつで結局、妻の言葉には逆らえず苗を購入した。そして、妻は見て見ぬふりして、わが手による苗の植え付けだった。支柱は山の藪竹の自給に頼り、コストの上増(うわま)しは免れている。しかしながら、きのう(6月19日・月曜日)までのところは、3品の苗にかけた費用(金)をかんがみれば、確かに1本2000円相当のキュウリと言えたのである。もちろん、後続するキュウリの花や、ナスとトマトの花持ちを見やれば2000円は、この先3品全体では薄められるであろう。実際にもミニトマトは、びっしりと実を着けて、日に日にトマト色に染まりかけている。確かに、コスト割れを怯(おび)えるようでは、わが家のキュウリ、ナス、トマト作りは、端(はな)から成り立たない。結局、コスト割れなど気にすることなく、花卉(かき)や愛玩動物(ペット)に親しむように、おおらかな気持ちをいだくことこそ、肝心と言えそうである。このことでは私は、妻の言葉に一敗地にまみれたことになる。このところの掲示板上には、大沢さまから数々の畑作(収穫)模様がご投稿されている。そのため、わが心は和んでいる。確かに、こころもとない自作に頼らなくても、キュウリ、ナス、トマトの恵みは、食べて、見て、聞いて、すべてよしである。同時に、ばら蒔いたコスモスは花を着けて、庭中の草むらに揺らぎ始めている。  

望月窯だより

 投稿者:大沢  投稿日:2017年 6月19日(月)14時52分44秒
編集済
   今年はスイカとカボチャの苗が良く育っていた。
はじめて一人前に大きなカボチャが成って、楽しみにしていたのに、
何ものかにつつかれてしまった。先回帰宅するときに、カボチャは
固いので悪戯されないだろうと思っていたのに返す返すも残念で、
虫除けのネットをかぶせた。まだ二つ実が残っていたからだ。
 スイカもソフトボールぐらいのものがあったのに、見当たらない。
今の時期、カラスが我が物顔に畑の空を飛び交っている。糞や羽も
落ちている。子育て真っ最中なのだろう。スイカにもネットを張った。
おかげで、実の大きさを見る楽しみが半減した。しかし、スイカは
小さな実が結構着いている。
 口惜しいカボチャの実は、未成熟の物を泣く泣く取った。つつかれ
たところ以外は見事である。被害に遭った部分をよけて半分にすると、
種が大きくなっていた。煮てみるとトロリとしてカボチャの味はしないが、
案外食感がいい。翌日には天ぷらにして食べた。捨てるには惜しい出来
具合だ。後の二個が楽しみである。
 

私と癌(七十八)田端信 作

 投稿者:大沢  投稿日:2017年 6月19日(月)14時08分13秒
   ポストや郵便局、犬の散歩で毎日平均すると八~十キロ
ぐらいであろうか。電車に乗ることは年に数回ぐらいだろ
うか。そんな毎日のせいでもあるまいが、一度乗ったら最
後、鉄砲玉のように帰ってくるのを忘れることもある。
 長く果てしない道草になったが、これはこの先も続くと
思う。それは計画的な道草でもある。
 そんな平穏な日々の中に突然、発生したのが傷害事件に
よる逮捕、二十二日間の拘留である。一昔前なら特に珍ら
しいことでもなかったが、ぬるま湯にどっぷりと浸かって
いただけに、薬味の効果は充分だった。そして、心の中に
惰眠を貪っていたものが、揺り起されたのである。ぼくは
若い頃から畳の上で死ねないものと覚悟を決め、それなり
の心構えをしてきた。
 同じ家を上下に分けて住み、出入口を異にして家族とも
ほとんど交流をもたなかったのもそのためである。家族の
電話番号を知らず、女房の勤め先も知らない。そして息子
の高校や大学まで知らなかった。人々はそれを不思議がる
が、ぼくにとってはむしろ、それが不思議だった。家族を
支える重荷を背負わされたことは同じであり、ただ生活形
態が少し変っていたにすぎない。だが、安逸に蝕まれて心
の中にあった鬼火はわずかなくすぶりを立てるだけで、生
き方そのものが形骸化していたのであろう。
 だが突然、降ってわいた火種は消え失せようとしていた
鬼火を、一気に掻き立てた感である。刑事や検事と向き合
っていた時、ヴィヨン、ベルレーヌボードレール、そして
フランシス・カルコ、フムスン、コールドウエルなど似て
非なるものたちが、葛藤し合う重々しい響きを確かに聞い
たのであった。そのおかげかどうかわからないが、自分と
しては一応の目的を得たように思う。
 

ふるさと電話

 投稿者:前田  投稿日:2017年 6月19日(月)07時24分39秒
  気象庁の梅雨入り宣言(6月7日)以来、きのう(6月18日・日曜日)の鎌倉地方は、ようやく梅雨らしい雨降りに見舞われた。このため、茶の間から眺めるアジサイは、まさしく水を得た魚のごとくに、色鮮やかに元気づいていた。梅雨にあってはやはり、適当な雨の日は必要である。もちろんそれは、自然界のアジサイにとどまらず、人間界の営みにも共通するものである。きょう(6月19日・月曜日)の夜明けの空には、雨は止んでいる。しかし、朝日の見えないどんよりとした曇り空である。これまた、典型的な梅雨空である。おととい(6月17日・土曜日)には、ふるさとの姪っ子からわが携帯電話に、ふるさと便りが入った。ふるさと電話は、常に恐々とするものになりさがっている。ところが、このときの電話は、幸いにも訃報や悲報を免れた。受話器の中の姪の言葉は、「叔父さん、きょうは田植えじゃもん!」という、言葉だった。その言葉を皮切りに、会話が始まった。私の切り出し言葉は、「そうや。きょうとあしたが田植えになるの?……」だった。ここ数年のわが家は、ふるさと産のコメの購入にあずかっている。実際には、姪の嫁ぎ先のコメにあずかっている。姪夫婦は勤務の身ゆえに、週末二日の休みを利用して、田植えの日取りに当てていたのであろう。こんな日取りは、兼業の農家の宿命である。このときの私には、実際の田植え日を知らされて、懐かしさがこみあげていた。同時に、わが記憶の中のふるさとの田植え日からすれば、(遅い田植えだなあ……)という、感慨にとりつかれていた。おそらくこれは、兼業農家ゆえの日取りのずれ込みであろう。姪っ子の田植え情報は、わがふるさと志向を懐かしく増幅した。のどかなふるさと電話にありつくことは、この頃では滅多にない。このことでは、会話を終えた私は、姪っ子の心根の優しさにたいし、感謝しきりになっていた。姪っ子は、かねがね私のふるさと志向の強さを知りすぎている。不断の私は、姪っ子やその兄(甥っ子)にたいし、よくこう話していた。「コメはこちらで買うことになるから、面倒をかけるけれど、どうせならコメくらいふるさとのコメを食べないと、ふるさとが遠くなるもんね……」と、言っていた。この言葉をはじめとして、何かにつけて二人は、わがふるさと志向を知りすぎている。本当のところであればわが家は、ふるさとの兄の家族のコメに頼りたいところである。しかし現在の兄は、老身ゆえにコメ作り止めている。そして、後継をになう長男夫婦は、勤務の身ゆえに今や田植え用無しの他人様への委託作業になっている。このため、実家のコメの上り(貰い分)は、ようやく自給自足程度の細々にすぎない。このためわが家は、望んでも実家のコメにありつくことはできない。もちろんこのことは、わがふるさと志向にあっては、きわめてつらく悲しいことの一つである。おのずからふるさと産米は、いまだにみずからのコメ作りを続けている姪っ子家族産にすがっている。しかしながらこれとて、もはや風前の灯(とのしび)である。時期を得たふるさと電話をくれたのは、共に今は亡き長姉夫婦の長女(渡辺康子様)である。ひととき、私は心の和むふるさと電話に酔いしれていた。そして、胸中の田園風景は、田植えを終えたばかりの水田風景へと、移っていた。しかし惜しむらくは、わがふるさと志向は、今や代替わりの憂き目にさらされている。  

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