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ボランティアのこと

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月19日(土)05時56分31秒
  十月十九日(土曜日)、私は難しいことを書こうとしている。しかしながら、わが能力や知識では書ききれるものではない。現代社会にあってはボランティア精神をたずさえて、実際にボランティア活動をする人こそ、崇高で敬愛すべき人たちであろう。まずは、言葉の意味を電子辞書にすがり記載どおりに転載する。【ボランティア・VOLUNTEER】「(義勇兵の意)志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人」。古来、日本社会にあっては隣組などと言って、無償の助け合い(精神)が根づいていた。実際の行動は文字どおり寄り合って、さまざまな慶弔事に及んでいた。まさしく、隣近所合意のうえの持ち回りの奉仕活動だった。確かに、かつてわが生誕の村では青年団や婦人会はたまた消防団などが形成されて、村じゅうが助け合い精神であふれていた。ところが現在、それらはまったく廃れているわけではないけれど細々となり、この先にいっそう先細りとなるであろう。その原因をひと言で言えば、人間の集合体すなわち社会生活の変化のせいと言えよう。今さら言わずもがなのことだけれど、社会は人相互の助け合いで成り立っている。身近なところで隣組という共同行為が廃れば、おのずから頼むところは納税で支える行政頼みとなる。しかし、行政にはおのずから限界がある。とりわけ、身近な出来事にすぐに対応するには限界がある。これまたひと言で言えば行政には、「もっとも痒いところ」に手が届きにくいところがる。すると、手っ取り早く頼るところは人の為す助け合い(精神)である。かつての隣組は、不断から顔見知り同士の助け合いだった。再びわが子どもの頃の一例を示すと、結婚式などの祝儀や葬式などの不祝儀のおりには、隣組総出でこれらのことを賄(まかな)っていた。ところが、現代社会にあってはこれらのことに営利企業が参入し、いまやそれらの光景は影を潜めている。確かに、やむを得ないところだが、日本社会にあってはこのあたりから助け合い(精神)の風潮が遠のき始めたのではないだろうか。もちろん、助け合うという事実が減ったわけではない。いやむしろ日本社会の人口減少、もっと身近なことでは地域の過疎化の深まりや住民の高齢化などで、助け合うべき事実は増え続けている。組織体の行政の支援は後追いがちであれば、素早く支援を頼むのはやはり助け合う人の志と働き手である。実際に難儀する人が最も頼りにするのは、ボランティアを志す人様の支援活動である。私にはボランティアの体験はない。そのため、ボランティア活動の実態を知ることはできない。このこともあって私は、ボランティアにまつわるインターネット上の記事を読み漁った。以下は、それらの中から選んだ一つの引用文である。しかし、掲載記事は長いので、部分の抜き取りを試みている。【ボランティアって何ですか?】「ボランティアとは? もともと「志願者」「有志者」という意味を持つ言葉です。誰もが、自分でできることを自分の意志で周囲と協力しながら無償で行う活動のことをいいます。1.ボランティアとは、(1) 一般的なボランティアとは ボランティア活動は一般的に次の四原則で説明されている。①自主性・自発性 個人の自発的な自由意思に基づいて行われる活動であって、人から命令や強要されて行うものではない。行政が意識の醸成や啓発を行っても活動することを決めるのは本人の自由意思によってなされるものでなければならない。②社会性・連帯性 社会にある様々な課題について、個人の関心や動機から始まったことでも活動することによって社会へ影響を与えるということであり、その活動を通じて他の人とかかわりができ、新たな人間関係が育まれるということである。③無償性・無給性(非営利性) 活動の対価や見返りを求めない活動であり、ボランティア活動の報酬は自分の満足感や人とかかわることによって得られる人間関係である。④創造性・開拓性・先駆性 行政の活動は、法律や条例、予算に基づいて行われるのに対し、独自の考えによって先駆的な、創造性豊かな活動ができるということである。」なぜ、ボランティアのことを書こうと思ったかを付言すればこうである。きのうのテレビニュースの中で、台風十九号の被災による復旧作業中の男性は、インタービューに応じてこう言われたのである。「なかなか、ボランティアが来てくれない。若い人の手助けが欲しい…」。私はこの言葉を聞いて、こう思ったのである。災害多い日本社会にあって、待ち続けるボランティア頼みでいいのであろうか。裏を返せばこのときの私は、行政の無力に憤りと腹立ちをつのらせていたのである。少なくとも被災自治体は、本当のところは日当を払ってでも人集めをすべきであろう。しかしながらこれは、ボランティアとの摩擦をかんがみて、実際には実行を危ぶむのであろう。すると、人集めにはやはり国の組織体である自衛隊や自治体の消防団など、一時横断的に今にも増しての緊急かつ大量の支援にすがるよりほかはない。こんなことを思っていると、わが気分は虚しくなっていた。さらに言えば私は、多くをボランティアにすがる災害現場の復旧作業の光景に、無性に寂しさをおぼえていたのである。すなわち、災害列島にあってボランティアを待つ復旧作業の光景は、日本社会のみすぼらしさをさらけ出していたのである。やはり、私は難しいことは書ききれない。  

下種の「繰り言」

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月18日(金)07時51分9秒
編集済
  例年であれば一年じゅうで最も好季節にあって、今年の場合は悪天候が続いている。二つの台風、すなわち十五号そして十九号が去っても、台風一過の日本晴れが望めていない。例年であれば胸の透く秋晴れも遠のいたままである。きょう(十月十八日・金曜日)もまた、雨の夜明けである。それどころか、この先の一週間にも多く雨の予報が伝えられている。人間心理は、気象の良し悪しに大きく左右されるところがある。予報が当たれば、好季節に違(たが)う憂鬱気分が続きそうである。日本列島にあって現在、二つの台風からもたらされた被災地および被災住民は、復旧作業の真っただ中にある。復旧作業に明け暮れているそれらの悲しさをおもんぱかれば、もちろんオチオチしてはおれない。通り一遍に異常気象あるいは気候異変というより、実際のところはそれをこうむっている日本列島の異変である。現下の世界は、地球温暖化傾向が危ぶまれている。本当にそうであればこの先、これらの異常事態はもはや異常とは言えなく、常態化するのであろうか。そうであれば日本列島のみならず、世界中いや地球自体の確かな危機である。このところのテレビニュースには、十五号台風の復旧いまだままならない中にあって、十九号台風の被災地および被災住民の復旧作業の光景が連綿と映し出されている。毎年、所を替えて見る羽目となっている悲しい光景である。そんな中にあって、きのうのテレビニュースではこんなことが伝えられた。一つは、安倍総理による令和天皇陛下の即位を祝するパレードの延期である。即位の儀式は予定どおり、十月二十二日に行われるという。そうであれば、台風災害の真っただ中にあってパレードの延期は当然であろう。パレード自体、もとからなくてもいいのではないか、わが見解である。一つは、来年(2020年)に迫っている「東京オリンピック」における、マラソンおよび競歩の競技場の変更提案である。こちらは、IOC(国際オリンピック委員会)の提案だという。提案内容は、これまで決まっていた東京から北海道への変更である。伝えられている変更理由は暑さ対策という。もはや、オリンピック自体を中止することはできないだろう。しかし、これまたわがケチな見解を添えれば、オリンピック自体なくてもよかったと思う。とかく社会は、国を司(つかさど)る為政者と国民感情が遊離して進むところがある。それは、為政者と国民との生活感情の違いを表すところでもある。このところの国会論戦でにわかに揶揄されている言葉を用いれば、とかく為政者は「思い出づくり」に華々しいことを打ち上げる傾向にある。一方、国民は日々の生活維持にこそ神経をすり減らしている。どうかすればそれは、為政者と国民の意識の違いを露呈することとなる。このたびの二つの台風惨禍を見るかぎり、私はこのことを強く思い知らされたのである。具体的には自然災害の多い日本列島の備えに、為政者の手抜かりがあったように思えている。確かに、多額のお金を投じても国の防衛は大事であろう。しかしながら、それ以上に身近なところで地域や住民の防災は大事である。どちらかと言えば為政者の舵取りでは、後者がおろそかにされてきたのではないだろうか。あとの祭りになるけれど、わが下種(げす)の勘繰りである。国民生活とは、個々の命を長らえる日々の営みである。換言すれば、まさしく明けても暮れても切ない「暮らし」を強いられる。ところが、それがズタズタにされては華々しい祝典や祭典など、どうでもいいことになる。いくらかでも、「繰り言」の絶える国の舵取りを願うところである。  

疼(うず)く、心の傷

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月17日(木)06時37分2秒
  十月十七日(木曜日)、心の傷の瘡蓋を剥がすかのように、時候本来の寒気が訪れている。私は生きることの厳しさを痛感している。もちろん、寒気の訪れとともに生きることの厳しさは、例年痛感してきたところではある。しかしながら今年の場合は、なさけなくも例年をはるかに凌いで痛感している。その原因は、台風十五号に因る家屋の罹災からもたらされている心の傷のせいである。なおかつ、罹災に因る後処理がいまだに手つかずのままのせいもある。日本列島にあっては、台風十五号を追っかけて台風十九号が襲来した。災害列島と異称される日本列島に住むかぎりは、台風発生の号数の多さには毎年慣れ切っている。ところが今年の場合、十五号は風でそして十九号は雨で、つまり台風本来の風雨の勢力でところかまわず多大の被害をもたらされたのである。そのため、テレビ画面にはすでに一か月を超えて、被災住民の痛々しい復旧作業の様子が映し出されている。地震をはじめさまざまな自然災害に遭うたびに、見慣れた光景と言うのはもちろん罰当たりである。このたびの台風十五号で私は、少なからず被災住民の悲哀心理に遭遇した。不幸にも悲しい体験から私は、これまでは無縁に過ぎてきた悲哀心理を教えられたのである。具体的には身を晒し、自然災害の恐ろしさを学んだのである。そのためこののちの私には、明らかに自然災害にたいする大きな心境の変化をもたらされている。大きな変化の一つは、あふれる涙を堪えて復旧作業にあたる被災住民の悲しみの共有である。ちょっぴりの体験がもたらしている、確かなわが心境の変化である。しかしながら、悲しみを共有できるのは万分の一程度にすぎない。だから、実際には被災住民の本当の悲哀心理は知り得ない。一方でこの先も、延々と続くつらい復旧作業のテレビ画像を観続けることとなる。せっかくの好季節のさ中にあって、今年の場合は寒気が余計身に染みるばかりである。加えて、いまだに瘡蓋がとれないわが心の傷は、ズクズク疼いている。  

「筆舌に尽くしがたい」

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月16日(水)06時24分40秒
編集済
  災害現場リポートをテレビ画面で観るたびに心中に浮かぶ言葉がある。それは「筆舌に尽くしがたい」という言葉である。簡単明瞭に分かりきっている成句だが、電子辞書を開いて復習を試みればこう記されている。「文章や言葉では十分に表現することはできない」。確かに、災害現場の悲惨さは、文章や言葉による表現では限界がある。すると、これらに代わるものは、目で見る災害現場写真である。現代社会にあって卑近なところでその役割を担っているのは、テレビに映し出されるさまざまな写真や画像である。実際にはテレビという媒体を通して、プロのカメラマンがカメラレンズを構えて写したもの、あるいは通りすがりの人がスマホなどで写したものなど、さまざまにある。特に、現代社会にあっては後者、すなわち行きあたりばったりに素人が写した写真が、ひと際災害の悲惨さを撮らえている。また、災害現場リポートを観るたびにつのる思いがある。それはインタービュー光景で、インタービュアに応じる災害に遭われた人たち一様に見られる意志の強さである。もちろんそれは、わが意志の弱さをかんがみて、それらの人たちの意志の強さへの驚嘆である。凄絶をきわめる災害現場リポートの画像を観て、「あすはわが身」とつぶやくのは、人様の災難をだしにして身勝手すぎる。結局、このところの私はなんらなすすべなく、台風十五号に続いて台風十九号のしでかした惨禍画像に見入っている。ところが観ているうちに、伝えられる死傷者数は累増するばかりである。そして、所を替えてさまざまに映る悲惨な光景は、まさしくすべて「筆舌に尽くしがたい」ものばかりである。これらの光景には「地獄絵」という表現もある。しかし、そんな想像上の表現は当を得ない。言葉なく、画像をじっと見つめているしか能がない。もちろんこの光景は、文章でもかけない。  

山紫水明の悍(おぞ)ましさ

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月15日(火)07時53分48秒
  メディアの災害報道には時として、必ずしも当を得ないものがある。台風十五号にあっては千葉県限定の報道が多かった。確かに、千葉県の被害状況は凄(すさ)まじく、かつ被災住民の痛ましさは、不幸にもメディア報道の真骨頂と言えるものがあった。一方で、大小の違いはあるけれど、神奈川県もかなり同様の被害に見舞われた。ほか、千葉県に隣接する都県に住む人々も地域を限れば、同様の被害に遭われた人たちもいるようである。確かに、大をもって報道せざるを得ないのは、物事すべてにおけるメディア報道の宿命および限界なのであろう。確かに、仕方のないことではあるけれど、このたびは被災したわが身に置き換えて、ちょっぴりそう思わざるを得なかった。台風十五号は、風(風圧)が多くの被害をもたらした。一方、台風十九号は、雨(水圧)が多くの被害をもたらした。双方に付加すれば「どちらか」という言葉であり、もちろん台風自体の恐ろしさに変わりはない。台風被害に限らず地震やほかの自然災害、かつ人が見舞われる偶発的事故、そして人為のおりなすさまざまな事件、これらの事あるたびにメディアの現場リポートは、かなしいかな! 悲哀を共有するにはなくてはならないものがある。このたびの台風十九号における現場リポートをテレビ画面で観ながら、わが心中に浮かんだ思いはこうである。それは、人が住まいに山紫水明の風景を望めば、一方では飛んでもない危険が潜んでいるという事実である。こう思ったのは不断に憧れている天下の名流・千曲川や阿武隈川が飛んでもない災害をもたらしたことに尽きる。普段、口ずさむ『千曲川旅情の歌』は、一遍に無情をもたらしたのである。加えて、地域を代表する名流はことごとく暴れ川となり、これまた流域住民に大きな被害をもたらしたからである。もちろん川だけでなく山の風景も、鉄砲水や土砂崩れをともなって、被害と恐怖をもたらしたのである。このたびは海の恐ろしさは免れたけれど、言うまでもなくその恐ろしさは津波、高潮、高波として現れる。いずれも、山紫水明を謳う日本列島の泣き所である。山紫水明のもたらす災害は、実際に多くの死傷者をもたらし、幸い生き延びても生きた心地のしない恐怖をもたらして、去って行く。実際には人の生活や生業を一瞬にして壊(こわ)し、人心に限りない傷痕をつけて、去って行く。つくづく腹が立つのは、台風一過の日本晴れである。もちろん、余波という言葉にも腹が立つ。台風十五号そして十九号に見舞われた人たちの心の痛みを共有するところである。  

「こころもとない! 再始動」

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月14日(月)12時24分58秒
編集済
  台風十五号では家屋の被害に泣き、台風十九号では恐怖心に慄いた。この一か月余にわたり私は、海上の島国すなわち台風の通り道にある、「日本列島に住み、生き続けること」の困難さを体験した。体験したくない実体験であった。出費をともなう損害と精神の苦痛は、文字どおりひ弱なわが精神(力)を滅多打ちにしている。心象をズタズタにされた私は、おのずから心象で紡ぐ文章は書けずじまいになっていた。しかし、台風十五号が去ったのち日が経つと、私は文章の再始動へ向けて助走文を試みた。きわめて、気分の重たい助走文だった。それでも再始動は、「ひぐらしの記」の継続へ向けて、どうにか目途がつきそうになっていた。それでもなお気分は、憂鬱症状をきわめていた。そのため、実際のところはおぼつかないキー叩きだった。その矢先、打ちのめされていた精神に、いっそう追い打ちをかける台風十九号が発生した。並み居る気象予報士の予報によれば、だれもが台風十九号を超ド級と伝えた。もちろん本丸の気象庁は、予想される台風圏の人々にたいして、防備および防災の警鐘を打ち鳴らした。すると、台風十五号被災の後処理がいまだ手つかにいた私は、繰り返し伝えられる台風十九号の勢力の大きさに怯え切った。具体的な恐怖は、屋根の損傷である。台風十五号明けに泣きべそをかいて電話帳で探し、未知の業者に電話をしてとりあえず応急措置は済んでいた。ところが、超ド級の台風十九号の発生という予報にたいしは、わが身の震えは止まらなかった。すなわち、高齢者一人手の応急措置くらいでは、気の休むところがなかったのである。加えて、山の斜面からの地滑りは、きょうあすにも起きそうに迫っている。あれやこれやで生来のわが小心は、輪をかけて「ナメクジに塩」さながらに萎え切っていた。このため、台風十五号のときと違って台風十九号の場合は、予報を聞くやいなや恐れて気分が滅入り、あえなく文章は頓挫した。すなわち、台風十九号の予報に遭ってわが心象は壊れて、たちまち文章は書けずじまいになっていた。私は、まさしく「泣き面に蜂」の心境に陥り、憂鬱気分の蔓延に晒されていたのである。憂鬱気分は台風十九号去った現在のみならず、先延ばしに晴れないままである。しかし、みずからを鼓舞しこんないたずら書きをしながら現在、再度助走文をしたためて再始動を試みている。バッタリと倒れそうな再始動にあっては、表題には「こころもとない! 再始動」と、つけざるをえない。十月十四日(月曜日、体育の日・振替休日)の昼近くにあっては、台風十九号の余波とも言える、風なく「しとしと雨」が降っている。きょうの懸念は、雨漏りと土砂崩れである。テレビニュースでは台風十九号がもたらした惨禍と、北の地方に移りなお降り続いている雨の恐ろしさを伝えている。台風十九号は、「台風」という字面(じづら)にない雨の恐ろしさだった。一方、台風十五号は、台風本来の風、雨共に強い恐ろしさだった。気候の好い晩秋に向かってこの先当分、気分すぐれないのは残念至極である。助走文や再始動の二の舞は、ほとほとなさけない。やはり、わが甲斐性の無しの「身から出た錆」である。  

台風一過

 投稿者:大沢  投稿日:2019年10月13日(日)07時17分6秒
   今朝の目覚めはこの時間になってしまいました。
昨夜は耳に届く地の底から沸き立つような雨混じりの
風の音に震えながらいつの間にか寝入ってしまってい
ました。起きてみると、雨戸の無い部分の窓から朝日
が輝くように差し込んでいました。窓を開けて周囲を
見渡すと、我が家は何事もなく何時もの景色が広がっ
ていました。
 ゆうべは、ふうたろうさんの投稿に勇気づけられま
した。前田さんの今朝の投稿もあり、嬉しい限りです。
 

ご報告

 投稿者:前田  投稿日:2019年10月12日(土)22時50分42秒
  大沢さま&ふうちゃん、そして皆様へ
 ご心配をおかけいたしました。恐れていた二次被害は免れました。残るは一時被害時の屋根の吹き替えです。これには、いまだに手つかずの後処理と、多額の臨時出費に頭を痛めています。
ただ、二次被害を免れたことには、妻共々にこの上なく安堵しています。しかし、被害に遭われた方々をおもんぱかれば、もちろん手放しには喜べません。だけど今は、それはきれいごとにすぎず、実際にはわが身の二次被害の回避を喜んでいます。この間は、わが息の根のみならずわが家の消滅を案じて、気鬱症状に陥っていました。後処理の日程は、いまだまったく立ちません。そのため、気鬱症状の快癒はそれまで果たせません。わが甲斐性無しの祟り、恨めしいかぎりです。しかしながら、ご心配をおかけしていた、台風十九号の被害を免れたことをご報告させていただきました。追記:実際に恐れていたのは、屋根の二次被害と今にも滑り落ちてきそうな山からの土砂崩れと、さらには高木のわが家への倒れかかりでした。今回は免れたものの後者は、いずれ見舞われそうです。するとこの恐怖は、地震、台風、そして集中豪雨のたびにこの先、ついてまわります。再び書けば、ほとほとわが甲斐性無しの祟りが恨めしいかぎりです。余計なことを書いて、申し訳ございません。
 

まさに真っ只中

 投稿者:大沢  投稿日:2019年10月12日(土)20時29分18秒
   ふうたろうさん、ご心配いただきありがとうございます。
今、雨風が強くなってきました。大きな河はありませんが、
被害が無いよう祈るばかりです。九時頃に東京の上空を通
過とのことですが、古河の実家付近も通過するようなので、
不安な気持ちでいます。
 前田さんのお宅も心配です。
 

心配してます。

 投稿者:ふうたろうメール  投稿日:2019年10月12日(土)15時34分55秒
編集済
   今、午後3時24分です。朝からの雨は、今も、降り続けていますが、昼過から吹き始めた強風は静かになりました。夕暮れ時に、台風19号は、関東周辺に上陸すると報道されている。静良君、大沢さんに被害がないよう祈ってます。  

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