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  1. ぽろりっ(0)
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交情

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月27日(月)05時24分52秒
  わが掲げてきた生涯学習は、友人・知人さらには声無き声の人様の激励と厚情に支えられて、身に余るたくさんの実を結びました。ひたすら、御礼を申し上げるしだいです。彼岸が過ぎて寒さに向かうにあたり、「もう止めてもいいかな?……」と、思念をめぐらして起き出してきました。枕元では目覚めて、わが愛読書の分厚い国語辞典をひもといていました。命あるかぎりほそぼそと、この動作だけは欠かせません。なぜなら、わが夢づくりの原点を成してくれたありがたい教科書だからです。一方ではかぎりなくたまわっている交情を断つ勇気はなく、心中では今なお決断がさ迷っています。九月二十七日(月曜日)、この先に訪れる寒気と秋の夜長は、とことん恨めしいかぎりです。デジタル時刻、5:14。文章を閉めて、冷えた寝床へとんぼ返りをいたします。再び、国語辞典をぺらぺらとめくれば、すぐに二度寝にありつけます。  

自然

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月26日(日)07時06分0秒
  四字熟語「水天一碧(すいてんいっぺき)」:水と空とが一続きになって、一様に青々としていること。水天は水と空、海と空。一碧は一面に青い色となること。碧は深い青色。あおみどり。  

秋賛歌

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月26日(日)06時46分35秒
  きょう(九月二十六日・日曜日)は、この秋の彼岸の明け日である。自然界は人間界に比べると、文字どおり自然体というか、素直というか、いや嘘を吐かない。昨晩あたりから明らかに、肌身に寒気をおぼえていた。目覚めて起き出して洗面のために蛇口をひねると、顔面を濡らす水もまた、(おっ)と顔を背けるほどに冷たく感じた。なんだか、遠のく暑気が恋しくなった。寒気の訪れにあって厭なことの一つには、軽装から重たい着衣への衣替えがある。顧みれば勤務していたおりの、女子社員の冬服への衣替えは十月一日だった。確かに、夏服や冬服への衣替えは、季節替わりの明らかな証しだった。代り映えのしない勤務にあっては、いっとき目の保養にもなり、職場に和みを醸していた。それは今のわが身には二度とはありつけない、懐かしい光景でもある。天変地異さえなければ自然界は、人間界にたえず素敵な光景や恩恵をもたらしてめぐる。彼岸明けのころは、まさしく自然界謳歌と賛歌の真っただ中にある。わが庭中から道路へ向かって立つ、今にも「枯れ時」を迎えそうな一本の柿の木には、わずかに六個の柿の実が生っている。気張って千切るほどでもなく、日に日に熟れゆく光景に、私は目の保養を兼ねてその風情(ふぜい)を玩(もてあそ)んでいる。まもなく熟れすぎて枝から離されて、直下の道路へ「ベチャ」と、音を立てて落ちることとなる。すると私は、宅配便、郵便配達のバイク、動き回る介護の車、あるいは救急車などに踏んづけられる前に、拾ってあげなければならないと、意を留めている。なぜなら柿の実は、私にさずかる秋の味覚の筆頭に加えて、郷愁に浸ることでもまた、他を寄せつけない位置にある。そうであればやはり、きょうあたり落ちる前に千切り、感謝の思いを込めて、わが口内へ入れてやるべきであろう。ただ無念なのはわが家には、柿の実へとどく竹竿がない。タイワンリスはひどい奴で、捕っては口に加えて山中へ逃げ隠れすればいいものを、その場で旨いところだけガツガツ食って、やがては食い飽きて汚らしく道路上に食い散らす。すなわちタイワンリスは、走る回る車輪をはるかに超えて悪態をさらけ出す。人間の命と食べ物を競い合う、野生動物の本能とはいえ、私にはそのつどほとほと憎たらしい光景である。先日の買い物にあって私は、無意識のごとくに、栗、林檎、蜜柑を所定の籠に入れた。柿にも目を留めたけれど、庭中の柿の実が浮かんで、この日は買わずじまいだった。実りの秋は、新米を加えて満開である。秋が深まれば野山は、絵になる熟れた柿の生る風景が郷愁をつのらせて、とことんわが気分を癒してくれる。寒気の深まりを恐れて、いっきの秋賛歌である。だからと言って、「小さい秋」とは言えない。寒さの深まりまでは、わが身にうれしい「大きな秋」である。  

歳月

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月25日(土)05時49分49秒
  四字熟語「烏兎匆匆(うとそうそう)」:歳月のあわただしく過ぎ去るたとえ。「烏兎」は歳月・月日の意。太陽には三本足のからすが棲んでおり、月にはうさぎが棲んでいるという古代中国の伝説による匆匆は急ぐさま。怱怱とも書く。  

わが余生にまつわる「雑感」

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月25日(土)05時33分59秒
  新型コロナウイルスの出現以来世の中は、その収束や終息へ向けて時間軸を基にして動いてきた。この間には東京オリンピックやパラリンピックなどをはじめ、大小さまざまなイベントが予定されていた。ところが、予定されていたイベントの多くはやむなく中止になったり、あるいは変質を余儀なくされてきた。特筆すべきことではこの間には、各自治体に対応して「緊急事態宣言」の発出が繰り返されてきた。もちろん、緊急事態宣言には期限が設けられていた。そのせいで日常生活の時間軸は、おのずからその帰趨(きすう)にとらわれて進んできた。私の場合はいつもにも増して、時の流れの中に埋没した日常生活に甘んじてきた。同時にそれは、いやおうない時の流れの速さ(感)の体験でもあった。幸いなるかなこのところは、全国的に新型コロナウイルスの感染者数は漸減傾向にある。しかしながら今なお、明らかに収束や終息に目途がついているわけではない。いや多くの専門家たちは、第六波へのぶり返しを危ぶんでいる。そうなると残り少ないわが余生は、これまでと同じように新型コロナウイルスにかかわる時間軸に翻弄(ほんろう)され続けるであろう。おのずからわが日常生活には、安寧は得られそうにない。このことは、現在の私が最も恐れ怯(おび)えていることである。至極、残念無念である。だからと言ってどうすることもできず、私は「俎板(まないた)の鯉」や「轍(わだち)の鮒(ふな)」の心境にある。このころは、三回目のワクチン接種の日程さえ取り沙汰されはじめている。こうなるとわが日常生活はおのずからこの先も、新型コロナウイルスの時間軸の埒外(らちがい)に置くことはできそうにない。おのずと、私には時の流れの速さ(感)がついてまわることとなる。新型コロナウイルスが終息しないかぎり、わが余生には風雲急を告げることとなる。実際には残りの時(余生)とわが命は安楽を得られず、新型コロナウイルスの時間軸に蝕(むしば)まれてゆくこととなる。いくらか、いやかなり早いけれど、きょうの文章は、第一弾の秋の夜長の迷想である。九月二十五日(土曜日)、パソコンのデジタル時刻は現在、5:09と刻まれている。わが余生は、時々刻々に残りの時を減らし続けている。この「時」にずっと、新型コロナウイルスの時間軸がまとわりついたら、私は死んでも死にきれない。もちろん、「死にきれないならそれもいい」とは言えない。ひたすら、私は新型コロナウイルスに翻弄されない、安寧な日常生活と余生を欲しがっている。  

秋風

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月24日(金)05時29分57秒
  四字熟語「愛別離苦」:親愛なる人と別れるつらさ。愛する人と生別または死別する苦痛や悲しみ。仏教でいう「四苦八苦」の一つ。
 

秋晴れ高く秋風さわやか、わが身悄然

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月24日(金)05時03分43秒
編集済
  眠気はあるのに脳髄に迷想がこびりついて、目が冴えて二度寝ができない。仕方なく起き出して来た。私は日を替えたばかりの真夜中に居る。きのうの「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)にあっては、真夏と紛(まが)う陽射しがふりそそいだ。私は咄嗟にはやりことばを捩(もじ)り、「シルバーサマー」(準夏)という、出来立てほやほやの自己流造語を浮かべた。夏草取りを怠けていたせいで、庭中は雑草茫々である。見苦しさに耐えかねて、草取りを敢行した。いや、大袈裟に敢行と言うほどではない。いっとき、少しばかり雑草を抜いた。しかし、汗の噴き出しに負けて、すぐにやめた。庭中に立つ一本の柚(ゆず)の木は、あまりにもたわわに実を着けすぎて、突然ほぼ水平に倒れた。悔しさはあるものの非難することなどできない。いやいや、健気(けなげ)な自己犠牲であるから余計、愛惜(あいせき)きわまりない。しかし、衰えたわが腕力では、まったく起こしてやることはできない。ふだん、私をはるかに凌いで柚の木、いやユズの実を恋い慕うのに、妻は力を貸すことなく、無下にこう言い放った。「パパ。パパじゃできないわよ。森さん(住宅地内の顔見知りの造園業者)へ頼みましょうよ」。私は要請を突っぱねた。「もう、枯れてもいいよ。我々も、もう長くは付き合えないんだから、柚の木も潮時だよ」ユズの実はまだ青みだ。この秋に黄色を成して、もう一遍わが家と隣近所のユズ風呂に貢献してくれたら切り刻んで、私は涙を流しておさらばするつもりでいる。柚の木の横倒れに遭って、物置への通路が塞がれた。このためきのうの私は、狭苦しい仮の通路を設けた。草取りはそこだけで終えた。このあとには缶笊(かんざる)を台所から持ち出して、零余子(ムカゴ)取りをした。腰を傷めて茶の間のソファに横たわる妻は、仕方なく日ごろからわが動作には無頓着である。ムカゴを着ける山芋の蔓は、キンカンの木にまとわりついている。いや、意図してまとわりつけさせているのである。大袈裟に言えば秋の味覚と収穫を望んで、キンカンの木にだけに巻き付けて蔓を育てているのである。その証しにキンカンの木の根元には年に一・二度、物置から買い置きの鶏糞を柄杓で掬って、気ままにふりかけている。ムカゴ取りは容易(たやす)いようで案外、手こずるところがある。指先からこぼれて、缶笊にカンカンと音をたてたり、いや多くはあっちこっち、雑草の中へ散らばっている。すると、腰痛持ちで中腰ができない私は、これまた物置から100円ショップで買い求めたプラ製の腰掛を持ち出して来ては、仕方なく座ることとなる。雑草に隠れて散らばっているムカゴを一つひとつ拾い上げるにはかなりの時間がかる。腰掛に座ると、天高い秋晴れの下、時ならぬ暑さをいましめてくれるかのようにさわやかな秋風が吹いた。確かに、快い秋風である。一方で私は、風に秋愁(しゅうしゅう)をおぼえた。私は去年の秋分の日にはいて、今年はいない人に心を留めた。やおら、指折り数えた。片手指では収まらない。両手を広げて、指折り始めた。両手の指でも、まったく数えきれない。ムカゴや木通(アケビ)の蔓探しに競い合った近所の人。ふるさとの友だち。大学時代の飛びっきりの親友。勤務していた会社では数え上げるに暇(いとま)なし。卓球クラブでは複数人が浮かぶ。ごく身近なところではふるさとの長兄。いつも気懸りだった人では大沢さまのご主人様。暑い肌を潤す秋風が身に沁みた。缶笊を持って茶の間に入ると、開口一番、妻はこう言った。「パパ。ムカゴ、そんなにいっぱい取れたの? ムカゴ、どこにあったの? 今晩、ムカゴ御飯にするわよ。わたし、ムカゴ御飯、とても好きなのよ」「そうだね、おれも好きだよ」妻には、秋愁などないのか。妻のことばは余計、わが身に沁みた。私はメガネと両耳の集音機を外した。汗まみれの涙を手元の手ぬぐいで拭いた。庭中へのひとり出向きには、マスクは用無しだった。快い秋風はさわやかさを凌いで、わが身を悄然(しょうぜん)とさせていた。  

秋彼岸

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月23日(木)06時45分54秒
  四字熟語「蓋棺事定」:棺を蓋いて事定まる。人は死んではじめて、その評価が定まるということ。また、生前の評価は利害などがからんでいるので、当てにならないことのたとえ。  

「秋分の日」

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月23日(木)06時29分35秒
  私の場合、「寄る年波」ということばはもはや死語であり、使えば不謹慎きわまりなく馬鹿呼ばわりされるのが落ちだ。なぜなら私には、加齢という波はとっくに着岸している。知り過ぎていることばながら、あえて辞書調べを試みた。「寄る年波とは、じわじわと寄ってくる加齢。年を取ること。年波は年が寄るを波にかけた表現とされる」。きのう(九月二十二日・水曜日)の私は、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出かけた。上手下手など、どうでもいい。なぜなら、今や「上手下手の判定」などこれまた死後に近く、たとえ「下手の判定」を食らっても、もはやジタバタすることや不平不満など微塵(みじん)もない。自分が下手なことなど普段の練習で、十分に納得いや確信していることだからである。ところが、きのう感じた足の衰えだけは、想定外すなわちわが想定をはるかに超えるものだった。私にはこれまで、正規の「体力テスト」の体験は一度もない。ところが、きのうのわが足の衰えぐあいを体力テストに擬(なぞら)えれば、自己判定で下駄をはかせたとしても、贔屓(ひいき)のしようのないほどの赤点だった。このことが誘因でたぶん、今やまったく場違いの寄る年波ということばが、未練がましく浮かんだのであろうか。きょうは季節を分ける「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)である。言わずもがなだけれど、「春分の日」(三月二十三日ころ)と対比される季節の分かれ目である。秋分の日が過ぎれば、日に日にわが嫌う寒気が忍び寄る。いや、大手を振って近づいて来る。このことでは春分の日に比べて秋分の日は、私には必ずしも歓迎できるものではない。ところが、たった一日で比べれば私には、断然秋分の日に軍配を上げるものがある。その理由はほぼ例年、秋分の日の恵みはわが身に途轍もなくさわやかだからである。例年にたがわず、きょうの秋分の日もまた、雨なく、風なく、そこはかとなく明かりが空を染め始めている、穏やかな夜明けである。こんなにも穏やかな夜明けにあってなぜ? 私には、今やとっくに置いてきぼりになっている、寄る年波ということばが浮かんだのであろうか。わが身には寄る年波というより、それよりはるかにつらい「焼が回って」いるのかもしれない。そうであれば私は、たった一日の秋分の日だけでも、のどかに暮らしたいものだ。切ない単願、いやいや喉(のど)から手が出そうな嘆願である。  

社会貢献

 投稿者:前田  投稿日:2021年 9月22日(水)07時01分58秒
  命を病まないこと、立派な社会貢献なのかもしれない。  

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