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  1. ぽろりっ(0)
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難聴の祟り

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月25日(日)08時33分48秒
  八月二十五日(日曜日)、私はこんな思いをいだいて起き出している。真夏、盛夏、消夏などの夏の盛りを表す季節用語は、すでにお蔵入りである。季節はすでに残暑の候にあり、それもごく短くなりそうである。梅雨明けが遅かったせいで、総じて短い夏となりそうである。わが皮膚感覚では、明らかにもう秋が訪れている。昨夜は網戸を用無しにして、すべての窓ガラスを閉め切り就寝した。そのうえ、夏用の薄い掛け布団をグルグルと体に巻き付けた。体の冷えを恐れて、風邪対策である。パソコンに就く前にかたわらの窓に掛かるカーテンを引き、窓ガラスを開いた。風は撫でると言うより、鋭く体に当たった。太身を一瞬、細めるほどの寒い風だった。驚いて、すぐさま窓ガラスを閉めた。このところ快い涼風に馴染んで気を許していた風は、思わずブルっとするほどの寒気を帯びていたのである。今朝のわが皮膚感覚である。人体にさずかる五官とは、眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)である。もちろん、どれもが一様に大切な器官である。これらの中で私は、耳(聴覚)の衰えを招いている。ありていに言えば難聴である。難聴が病の範疇に入るのかどうかはわからないままに、実際には日常生活に大きな不自由を強いられている。不自由の最大のものは人様との会話がしどろもどろとなり、日常生活の楽しみが殺がれていることである。次には、耳(聴覚)にすがる季節の移ろいがわかりかねていることである。これによりまた、楽しみが失われている。夏であればアブラゼミを筆頭に、クマゼミ(ワシワシ)、ニイニイゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシなどの鳴き声が聞けずじまいである。秋であればスズムシなど集(すだ)く虫の声が聞こえてこない。難聴になる前はうるさくさえ感じていたこれらの鳴き声の途絶えは、今や寂しく人間喪失の感さえある。短い命が尽きて白い腹を仰向けて、道路に転がっているアブラゼミに遭遇すると、(居たのか!)と、指先で拾い上げるなさけなさである。季節の移ろいを感ずる耳(聴覚)の衰えを補うものは、眼(視覚)と皮膚(触覚)である。このところ、眼(視覚)では落ち葉の多さを知り、皮膚(触覚)では風の涼しさを感じていた。ところが、今朝の風は早や寒気を帯びていたのである。短い夏は、一足飛びに秋の色に染まりかけているのであろうか。秋には色なく、もちろん眼(視覚)で見ることはできない。しかしながら皮膚(触覚)にすがり、さまざまに彩りをめぐらすことはできる。確かに、季節の移ろいを楽しむには、眼(視覚)と皮膚(触覚)に加えて、耳(聴覚)が正常であれば鬼に金棒である。ところが、それを失くした現在の私は、明らかに季節の移ろいの楽しみ方の一つを失くしている。言うなれば現在の私は、難聴の祟(たた)りをこうむっている。卑近なところでは、セミや集く虫の鳴き声が聞こえず、耳(聴覚)のもたらす季節感を失くしている。「パパ。虫の鳴き声、うるさいわねー」「虫、もう鳴いてるの?」「あんなに鳴いてるのに、パパには聞こえないの?」「聞こえないね」つらい会話が近づいている。残念至極である。  

「終わり良ければすべて良し」

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月24日(土)07時38分19秒
  八月二十四日(土曜日)、いくらか肌寒い涼感の夜明けが訪れている。涼感は、きのう(八月二十三日・金曜日)の雨の恩恵である。本当に、頑固爺に成り下がったものだ。もはや、頑固症状という、新種の病を患っているのかもしれない。病であれば難治性の病であり、この先がいっそう危ぶまれるところである。一方ではやはり、天気予報のことなかんずく雨の予報の外れをしつこく書いた結末は、ほったらかしにはできない。もちろん、「雨が降ったから良し」と独り悦に入り、それっきりではわがお里の知れるところである。バカじゃなかろか私は、雨の予報にもかかわらず外れたことを四日間も書き続けてきた。それはまさしく、私自身が頑固症状と自覚するほどのしつこさだった。このしつこさには自分自身、あきれ返っていた。そのこともあってこの間に書いた文章の表題には、「余話」あるいは「四たび」などを添えて、私自身の混乱を露わにしていた。そして、書き始めて五日目のきのう、とうとう雨が降ったのである。そのうえ雨は、わが念願の「夕立」に似たものだった。それはまさしく、溜め込んでいた憂鬱気分を晴らし、わが心をたちまち潤す恵みの雨だった。朝のうちの小降りの雨はすぐ止んだ。これ幸いとばかりに私は、土壌の固さをほぐしてくれそうな雨に感謝し、勇躍庭中の草取りをした。しかしこのときの雨は、地表を薄く濡らす程度で草の根までにはとどかず、乾いた土がしつこく抵抗した。ところが夕方になると、雨はひとしきり降った。この雨こそ、降る時間に限りのある夕立に似ていたのである。似て非なるものすなわち、夕立と言い切れなかったのは、夕立につきものの入道雲や雷鳴のない雨の降りようだったからである。そのぶん、優しい降り方の通り雨だった。このことでは恐怖のともなわない、快哉(かいさい)を叫びたくなるほどの清々しい雨だった。実際のところはきのう、東日本の大空を脅かしていた大気不安定がもたらした「にわか雨ないしこぼれ雨」と、言えそうな雨だった。にわか雨、こぼれ雨、どちらにしても、この雨の恩恵は多大である。雨上がりのあとは暑気を蹴散らし、大気中に涼風を吹き散らしてくれたのである。確率をともなう雨の予報は四日間も外れ続けた。しかし、五日目にして念願の夕立をはるかに凌ぐ、快い恵みの雨に遭遇したのである。だから、「終わり良ければすべて良し」と心和んで、他愛ないいや取るに足らない文章の打ち止めを、この文章で為すものである。ようやく雨降りを果たした明けの夜明けの空には、秋の陽射しが柔らかく昇りはじめている。  

再三再四、四たびのバカ正直

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月23日(金)08時09分9秒
編集済
  八月二十三日(金曜日)早朝、六時過ぎに起き出してきた。就寝中、悪夢に魘されて現在の精神状態はボロボロにある。良夢は人間の知恵の中でも、最良のさずかりものの一つであろう。ところが逆に悪夢は、人間の知恵が脅かす最悪の魔物であろう。なぜなら、一旦悪夢にとりつかれると精神状態は錯乱し、通常の人心を離れて架空の生き物の振る舞いに様変わる。そのため、起き出して人心へ戻るまでには、しばらく夢遊病者状態を余儀なくする。現在の私は、人心への戻りいまだ半ばの状態でキーを叩き始めている。さらには遅く起き出してきた罰が当たり、文章を書くにあたっては焦燥感がつのるばかりである。結局、悪夢の忘却は文章を書きながらにして、しだいに精神状態の修復を待つより便法はない。さて、天気予報が当たろうと外れようときょうの私は、もうそのことを書くのはよそうと、決意していた。ところが、また書かずにおれない心境にとりつかれている。それは、再三再四という適当なことばが浮かんだからである。夜間の雨の予報は四たび外れて、夜明けを迎えていたのである。この先のかすかな望みは、どんよりと漂っている雨空である。しかしながら、この状態も四日間の朝の繰り返しである。こんな状態で過ぎた三日間は、雨の予報はことごとく外れた。結局、待望していた夕立はもとより、小粒の雨さえ降らないままだった。きょうもこの先、雨が降らなかったら二の舞いどころか、四度目のバカ正直になりそうである。しかし、雨の予報の一縷(いちる)の幸運は、暑気を遠退けた秋の風を思わせる涼風の恵みである。時あたかも、真夏の風物詩と謳われている全国高校野球選手権大会・夏の大会(兵庫県西宮市阪神甲子園球場)は、きのう(八月二十二日・木曜日)決勝戦が行われて閉幕した。決勝戦は、大阪府の代表校・履正社高校対石川県の代表校・星稜高校だった。そして栄冠は、初優勝の言葉を添えて履正社高校に輝いた。この大会が終われば日本の夏は、一挙に秋の装いを深めてゆく。ところが、秋の台風シーズンが気になるところである。そのうえ自然界は、四度の雨の予想をはねのけて、雨ならず風のエネルギーを溜め込んでいるのであれば気を揉むところである。網戸から入る涼風が肌身を快く撫でているけれど、やはり夏の暑気を蹴散らす一雨がほしいところである。そのうえ私は、再三再四欲張って夕立を望んでいる。小降りの雨が降り出したのか、立ってかたわらの窓ガラスを開けると、道路が薄っすらと黒ずんでいる。両手を重ねて、パチパチである。四度目のバカ正直は、もうコリゴリである。小降りの雨は、四度目のバカ正直を覆(くつがえ)してくれるのか? これは、わが期待を込めての切ない念願である。  

「天気予報、余話」

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月22日(木)07時25分28秒
  八月二十二日(木曜日)、遅く起き出して来て、すでに夜が明けている六時近くにパソコンを起ち上げた。就寝前に気に懸けていた明け方は、厳密にはもう過ぎている。もともと私は、根っからの「肥後もっこす」(熊本県人特有の頑固者)である。ところが加齢のせいで、それに輪をかけて頑固爺(がんこじじい)へ成り下がっているようだ。なぜなら、自分自身たかが天気予報に関し、こんなにもしつこいとは呆れるばかりである。確率絡みの雨の予報は、おととい、きのう、と二日続けて外れた。そして、雨の予報は三日目まで延びて、きょうの「明け方」と予報されていたのである。そのうえ、大荒れの予報だった。この予報に出合って就寝時の私は、前面の窓ガラスの一つを除いて、四囲の網戸を窓ガラスに切り替えた。さらには、窓ガラスをカーテンで覆った。大荒れの予報にたいし、意図した完全防備だった。そのせいで夜明けの明かりが遮られて、眠りこけて起床が遅れたとも言えるほどの構えだったのである。普段にも就寝中の私は難聴のせいで、大嵐や台風でもないかぎり風雨の音に気づくことは稀になっている。昨夜も就寝中にあっては、風雨の音には気づかずじまいだった。それでも私は、雨の夜明けを確信して起き出して来た。ところが、かたわらのカーテンや窓ガラスを開けるまでもなく、前面の窓ガラスを通して、雨のない夜明けに遭遇したのである。窓ガラスには乾きがけの雨垂れはなく、雨が明け方に降った形跡は見えなかった。それでも、かたわらの窓ガラスに掛かるカーテンを引いて、窓ガラスを開いた。すると、どんよりとした曇り空の下、眼下の路面にはやはり、雨の跡かたは見えなかった。三日目まで延びた雨の予報は、明け方から夜明けまでは、またもや外れていた。だからと言って私は、天気予報は確率ゆえに、ふてくされてはいない。しかし、(よう、外れるな!)という、思いはたずさえている。そして、その自己慰安には、このところの大空は晴れの地合いなのだろうと、ひそかに合点しているところである。すなわち、このところの大空には晴れの地合いが続いて、執拗に雨を妨げているのであろう。こう思うのは逆に一旦雨が降り出すと晴れに抵抗し、雨が降り続くことを過去の体験上知りすぎているからである。結局、明け方の雨、いや大荒れの予報は外れて、先ほどのどんよりとした曇り空は、時の移りにつれて明るくなり始めている。ヤフー画面の下部右隅に表示のきょうの天気予報(横浜)は、きのう同様確率50%である。明け方は外れたけれど、いまだ半分の確立にすがり、私はきょうもまた「夕立」を待ち望むところである。念願かなって夕立に遭遇すれば、しびれなおしの勿怪(もっけ)の幸いである。これを願って、頑固爺丸出しの天気予報にかかわる文章は、これで打ち止めにしたいものである。表題には先走り、「天気予報、余話」、と浮かんでいる。  

「夕立」待望

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月21日(水)05時53分8秒
  八月二十一日(水曜日)、夜明け前というか未明というか、現在は三時近くである。どっちつかずの時間帯は、表現に戸惑うばかりである。しだいに白み始める夏の朝の風景は、雨戸やカーテンなど用無しに開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して堪能できそうである。私は夏の朝が好きだから、早起きの得にありつけそうである。起き出して来てパソコンを起動する前に、かたわらの窓ガラスを開いた。一基の外灯が雨無しの道路を淡く照らしていた。いつもの習性にしたがって、やおら椅子に座りパソコンを起動した。起ち上るまでには五分余りがかかり、さらに最初のヤフーの画面が開くまでには、なお待たなければならない。生来、私はせっかちの性質(たち)ではないと自認している。しかし、待っているあいだにイライラがいや増してくる。ヤフー画面が開くと下部の右隅には、きょうの天気が表示されている。表示には、(横浜)、と記されている。ずばり、鎌倉地方の天気ではないけれど、私にはこれで十分である。鎌倉市は横浜市と隣接し、とりわけわが住宅地は横浜市栄区と地続きにある。ちなみに、わが行きつけの歯医者は栄区「斎藤歯科医院」である。このため普段から私は、鎌倉地方の天気予報は横浜地方の予報と同一とみなしている。表示によればきょうの横浜地方の雨の確率は、50%である。気温表示もあるけれど、すでに暑さのピークは過ぎているから、もはやこちらは用無しである。きのう(八月二十日・火曜日)は、表題のつけようのない実の無い文章を長々と書いた。その挙句に表題は、初めて「無題」とした。焼けのやんぱち気分で付けた表題である。ところが、きょうの文章もまた、きのうの延長線上を免れていないなさけなさである。きのうの文章の大部分は、前日の雨の予報の外れに起因する書き殴りだった。だからと言って、腹いせに書いたわけではない。実際のところは、天気予報につきまとう「確率」に翻弄(ほんろう)されていたのである。天気予報における雨の予報は確率という、半面不確かな予報に基づいている。そのため当たり外れがあるのは、私のみならず誰でも知りすぎている。もちろん、外れても仕方のないところである。言うなれば天気予報の当たりはずれは、結果論と言うべきものである。おのずから、結果に恨みつらみをいだくのは、愚の骨頂と言えそうである。しかし、天気予報は人の日常生活の根幹に位置している。その証しに天気予報は、あらゆる媒体を通して時々刻々に伝えられてくる。結局、人の営みにおいては、天気予報こそ最良のありがたい情報と言えるものであろう。こんなにも有用な情報を伝えてくれるのは、気象庁ないし気象予報士である。だから予報の外れにたいし、おちょくったり、皮肉めいたことを言うことは、わがお里の知れるところである。そうは言っても、おととい、きのうと、二日続けて雨の予報が外れたことには、ちょっぴり腑に落ちないところある。すると、「気象のことだから、外れますよね。だから、あなたが気を揉むことはないですよ!」と、応援メッセージを送るのは、やはり「甘ちゃん」であろう。雨の予報は二日続けて外れ、私は大相撲の決まり手で言えば「かたすかし」を食らったのである。確かに、わがファンとする女性気象予報士・関口さんのせいではない。宇宙空間には気象衛星「ひまわり」が、目を凝らしてグルグルと回っている。科学者の知恵も、宇宙の神秘性にはいまだ敵(かな)わない証しと、言えそうである。未知の宇宙空間を回る「ひまわり」の過ちに比べれば、わが脳髄のしでかした過ちとことん馬鹿げている。すなわち、わが脳髄はきわめて単純至極なことを過ち、さらには嘘を言いふらしてしまったのである。過日の文章で私は、全国高校野球選手権・夏の大会の決勝戦をきょうと、記した。ところがそれはわが過ちであり、決勝戦はあす(八月二十二日・木曜日)行われることになっている。わが過ちを詫びるところである。きょうの雨の確率は50%である。わが過ちを省みれば、外れても文句の言える筋合いにはない。気象予報士の過ちは不可抗力であり、わが過ちは薄ノロ間抜けのうっかりである。大空はどんより曇り、夜が明けてきた。雨の気配は、五分五分である。二日遅れても雨になったら、良しとすべきであろう。遅れた償いには、欲張って「夕立」を望んでいる。  

無題

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月20日(火)05時37分28秒
  八月二十日(火曜日)、午後あたりから雨の予報にある。しかし、本当に降るかどうかはわからない。予報は、確率ということになっている。確立というのは、確かな度合いを百分比(%)の刻みで表すことである。だから、はずれても気象庁や気象予報士は、そんなに責任は問われない。いや、開き直りの言い草は、「気象のことが、100%当たるわけなどないでしょう」。確かにこう言われると、私はぐうの音(ね)も出なく、たちまちお手上げ(降参)である。へそ曲がりの私はその腹いせには、気象庁や気象予報士の仕事は気楽なものだな! と思うことたびたびである。こんな馬鹿げた書き出しをしていることには、卑近なところで確かな根拠がある。きのう(八月十九日・月曜日)は雨の予報だった。しかも確率は、結構高いものだった。ところが雨は二、三粒降ったにすぎず、ほぼ一日じゅう気温の高い夏の陽射しに見舞われた。日中にお猪口(ちょこ)を据えていても溜まるどころか、底を濡らすこともなかったであろう。企業であれば掲げた目標にたいし、こんなにもなさけない実績であれば、大目玉を食うどころか責任を問われるであろう。その挙句には人事評価に影響し、降格あるいは左遷さえ余儀なくするかもしれない。実際のところ気象庁や気象予報士の予報の外れにおける処置は、どうなのであろうか。いや実際には、まったくお咎めないのであろう。なぜなら気象予報士は、きのうの予報の外れにはまったく言及することもなく、なおしゃあしゃあときょうの予報を伝えていた。その予報によればきょうは、午後あたりから雨の予報である。しかし、再び外れても確率を隠れ蓑にして、言い逃れが存在するであろう。今の私は、馬鹿なことをよくも長々と書いたものだ。われながら呆れているところである。もちろん、予報が外れたとしても私は、気象予報士を責めることはまったくない。なぜなら私は、NHK地上波テレビの気象コーナーを担当されている、女性気象予報士の大ファンだからである。見目麗しい彼女には、実際にも心中では(気象のことだから外れますよね。ちっとも気にすることはありませんよ)と、応援メッセージを呟いている。同時につくづく、可愛い人は得だな! と思っている。確かに、関口さん担当の天気予報コーナーは、わが毎度の楽しみの番組外編である。さて、夏の盛りにあってわが狭小な庭中にあっては、夏草が茂り放題になっている。それを茂るままにほったらかしにしていては、憂鬱気分の一つを成すことになる。大袈裟に言えばそのため、草取りの決意を固めている。春先から四度目くらいの決意である。ところが夏の草取りは、夜明けまもない涼しいうちにかぎるのが最良策である。もちろんこの時間だと、夏の朝の風の涼しさはもとより、眠たいやぶ蚊の始動もいまだしのところがあるからである。ところがわが都合で困ったことは、夜明けには文章書きと道路の掃除がある。これらに草取りを加えれば三すくみの状態になり、にっちもさっちもいかなくなる。そのため今朝は、文章書きをいくら前倒しにして、草取りを実践するつもりにある。夜明けが訪れた。そのためこの文章は、尻切れトンボのままに書き止めである。書き殴りの成り行き文とて、凡庸の私にはほとほと手に負えないものがある。その証しには、表題のつけようもない実の無いない文章を長々と綴った。結局、ご常連の読者各位様にはかたじけなく思うと同時に、自分自身はなさけなさに気分が滅入っている。  

過ぎ行く夏、近づく秋

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月19日(月)07時34分19秒
編集済
  八月十九日(月曜日)、きのうの気象予報士によれば雨の予報である。確かに、夜明けの空はどんよりとしている。ところが、今のところは雨無しの夜明けである。台風十号にともなう歓迎しない風雨はあったけれど、心地良い涼風をともなう夏の雨にはいまだに無縁である。できれば夕立を望んでいるけれど、そんな欲張りは捨てて夏の雨の一降りを望んでいる。そのため、きょうの雨の予報は憎たらしいものではなく、どちらかと言えば大いに歓迎するところである。夜明けの日課の道路の掃除は、雨の予報をかんがみてきのうの夕方に済ましている。起き出して来てすぐに窓ガラスを開いて、道路を眺めた。いや、確かめた。幸運にも道路は、綺麗な状態をとどめていた。朝の掃除を免れて、心中で喝采した。同時に、心が落ち着いた。いつもであれば焦燥感につきまとわれて、額に汗を滲ませてパソコンを起ち上げる。そのうえ、パソコンの起動の遅さにイライラをつのらせる。綴るテーマなどまったく浮かばず、焼けのやんパチでキーを叩き始める。こんな異常な精神状態で、心象で綴る文章が書けるはずもない。おのずから文章の書き出しはしっちゃかめっちゃかで、実際にはいつも変わり映えのしない書き出しに甘んじる。その証しは、現在この文章で明らかである。すなわち、手っ取り早いだけが取り柄の新味のない書き出し文である。もちろんわが非才ゆえで、埒(らち)明かずである。先週は八月盆とそれにともなう日本民族大移動、そして終戦の日、加えて台風十号に襲われた。よくもわるくも日本社会の夏の大きなイベントに、時ならぬ台風騒動が加わったのである。これらのことを顧みれば先週の日本列島は、この夏を画するほどの大騒動の一週間だったと言えそうである。実際にも先週の多くの国民は、楽しみと悲しみあるいは過去の悲痛をよみがえらせて、夏の一大イベントを過ごしたのである。確かに、先週の日本列島は、例年の習わしに台風十号に襲われて、てんてこ舞いの状態だった。そのため、先週が過ぎて週初の現在のわが心境は、芝居見物になぞらえれば呼び物の一幕が終わり、中入りを迎えた状態にある。同時に、この夏が終わりに近づいていることを実感している。全国高校野球選手権・夏の大会(兵庫県西宮市・阪神甲子園球場)は、きのうの準々決勝で四強が出そろった。そして、きょう一日休んで、あすの準決勝、あさって(八月二十一日・水曜日)の決勝戦となる。これを終えると毎年、日本列島には夏の様相が遠ざかり、秋の装いが近づいてくる。気象庁の中期予報によれば、日本列島の気温は先週あたりがピーク(頂点)にあり、この先は例年より低くなるという。この予報が当たれば、今週は去り行く夏を惜しむ週となろう。人間の心境には摩訶不思議なところがあり、暑さにこっぴどくやられても、去り行く夏には愛惜がつきまとう。案外、人間ゆえの妙味や知恵なのかもしれない。人間特有の情感をともなう感傷なのであろう。実際のところは去り行く夏の寂しさを失せさて、訪れる秋へ望みをつなぐ四季の恵みなのかもしれない。肌身に感ずる風は、きのうよりいっそう冷ややかである。去り行く夏を惜しみ、近づく秋への思いを膨らませて、八月下旬を無事無難に過ごしたいものである。雲間から、夏の陽射しがこぼれ始めている。もはや、柔らかい秋の陽射しである。  

人生訓

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月18日(日)08時04分9秒
編集済
  八月十八日(日曜日)、秋の訪れを感ずるのは、わが肌の早とちりではない。確かに、秋が近づいている。網戸からさっと入る風は、きのうより肌身を冷やしている。おのずから、暑い夏の終わりを感じている。だからと言って、喜んでいるわけではない。寝起きのわが心中には、こんなことを浮かべていた。この夏のこれまで、夏のレジャー中の死亡事故および負傷をともなう遭難の人達は、どれくらいいたであろうか。すでに書いたことだけど、もちろん夏にかぎらずレジャー(楽しみ)中の瞬時における事故による災難は、私にはことのほかつらく思えるところがある。もちろんそれは、楽しみが一瞬にして悲しみへと暗転するからである。もちろんすべての事故に共通する、事故特有の悲嘆である。八月盆が過ぎた。同時に、日本民族大移動の週はきょうが最終日である。日本の国の重たい八月の証し、すなわち「広島原爆の日」(六日)、「長崎原爆の日」(九日)、「終戦の日」(十五日)も過ぎた。そして、学び舎の夏休みも終わりに近づいている。過ぎ行く夏の総括はまだ早いけれど、それでも現在を生きる日本社会(国民)のこの夏の過ごし方が気に懸かるところである。今朝の私は念願の二度寝にありついて、爆睡にあずかり起き出してきた。一方では寝坊助(ネボスケ)となり、すでにカンカン照りの夜明けの中にいる。実際には、寝坊助による二つの罰当たりをこうむっている。一つは日課の朝の掃除が出来ないこと、もう一つは額に汗を滲ませて走り書きを始めている。いつもの私は、文章を書く前に朝刊を開くことなどめったにない。ところが、今朝の私は起き遅れの焼けのやんぱち気分で、購読紙朝日新聞朝刊(令和元年・2019年8月18日・日曜日)を開いた。実際のところは夜明けの陽射しに脅かされて、文章を書くのを諦めて開いたのである。すると、いくつかの見出しに「さもありなん」と思えるものに出合ったのである。内容を読む時はなく、大見出しだけである。もちろん個々のつながりはなく、私自身が落ち穂拾いのごとく拾ったに過ぎない。あえて言えば、子どもたちへのメッセージで共通している。共鳴をおぼえた見出しは、これらのものである。「好きなことをして 君の道を生きて」(いじめで不登校の経験 タレント・中川翔子さん)。「悲しみ これからずつと」(京アニ放火1か月 犠牲の津田幸恵さんの父)。「必要のない人なんていないんだから 必要とされるものに必ず出会うから」(母・希林さんのバトン 悩む子どもたちへ 俳優・内田也哉子さん)。「人生にはレギュラーも補欠もない」(鶴岡東 全員野球の神髄)。開いてよかった。共鳴する人生訓がちりばめられていたのである。もちろん、寝坊助の手抜きではなく、留め置くに足りる人様からさずかった貴重な人生訓である。人生晩年の私も、一つぐらい人生訓を残したいものである。「人生は、泣いていてばかりでは前に進まない」。なさけなくも、マイナス思考著しい自分自身への警鐘と鼓舞である。  

台風十号一過の日本晴れ

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月17日(土)07時27分41秒
  八月十七日(土曜日)、台風十号一過ののどかに晴れた夜明けが訪れている。台風十号はあいにく八月盆と重なり日本列島は、陸、海、空、の交通アクセスの乱れに見舞われた。おりしも、お盆特有の日本民族大移動の最中にあって、そのため方々に出かけていた人たちの足を混乱に陥れた。しかしながら一方、気象庁の大型台風の予報にたいしいくらか背き、日本列島各地の被災は小さくて済んだ。それでも、災難に遭われた人たちはいる。だから、それらの人たちからすれば、噴飯物の言い草になる。確かに語弊はあるけれど、しかし「不幸中の幸い」と言っていいほどに、台風十号は大過なく去った。しかし台風十号は、この先八月を過ぎて台風シーズンとの異称のある九月までを俯瞰すれば、先駆けのほんの序の口にすぎない。この先、今年の台風は何号で打ち止めになるのか、あるいはまだどれほど大きなものがひかえているのか、気が揉めるところである。台風となればふるさと熊本県や九州は、むかしからいまにいたるま通り銀座である。かてて加えてこのところは、かつては無縁に思えていた地震の多発地方にもなっている。そのたびにふるさと志向著しい私には、消息訊ねのふるさと電話が増えるばかりである。しかしながら、ふるさとがどんなに天変地異に脅かされても、私は懐郷の思いを捨て去ることはできない。いや、天変地異に脅かさるたびに、懐郷の思いはいや増すばかりである。日本列島が天変地異に晒されるたびに、余計つらさを逆なでされることでは、台風の場合は台風一過の澄みわたる日本晴れがある。時ならぬ集中豪雨による土砂崩れや洪水惨禍のあとには、こんどはたちまちの水浸しの土地が干からびるほどの日照りに見舞われる。恨めしい自然界の悪戯(いたずら)である。しかし地震だけは、それだけでは収まらず余震の恐怖がいや増すばかりである。やはり、地震こそ天変地異がもたらす、異次元の恐怖の筆頭と言えそうである。台風一過の日本晴れをすんなり喜ぶことはできないけれど、のどかな朝ぼらけにちょっぴり浸りたい思いはある。台風十号一過、そして八月盆過ぎて、この夏はいよいよ終盤に向かっている。日に日に、暑さも遠のいて行く。できればこの先、台風の出番無きを願いたいところである。ところがそれはわが叶わぬ願望であり、台風十号は台風シーズンの先駆けにすぎないことは、過去の体験上知りすぎている。一難去ってまた一難、天変地異の鳴動は、人間の願望や知恵を無残に蹴散らして、かつ時を選ばず訪れる。だとすればひととき、台風十号一過の日本晴れに酔いしれたい思いがある。朝夕の風は、すでに肌が冷やりとする秋の風になりかわっている。おのずから、台風シーズン間近である。  

「八月盆」明け日(送り日)

 投稿者:前田  投稿日:2019年 8月16日(金)07時53分49秒
  八月十六日(金曜日)、八月盆の明け日の夜明けが訪れている。明け日としても間違いではないけれど、盆に使用する言葉としては違和感を自認している。本当のところは四日間の盆の最終日であるから、送り日こそ適当であろう。なぜなら、御霊を迎えて、そして送る日である。実際のところは盆の習わしにしたがい迎え火を焚いて、送り火を焚く盆ゆえの風習もある。ところが私は、盆の迎え日にあたる初日の文章において、うっかり入り日と書いた。本当は、迎え日と書けばしっくりするところだった。しかし、間違いでもないだけに、訂正せずそのままにした。いや、時の流れからしたら入り日と明け日のほうが、案外しっくりくるところはある。だけど、盆にあってはやはり、迎え日と送り日こそがふさわしく、正しい用い方であろう。こんなことを心中に浮かべながら、わが家の八月盆を顧みれば、日常が寸断されて非日常の生活に終始した。その挙句にはこの間、わが老夫婦の日常生活のペースは散々に狂った。実際にわが老夫婦の日常を狂わせたのは、この間における娘と孫(小学六年生)の来訪だった。ここでも私は、言葉の使用に戸惑った。娘だけなら里帰りという的確な言葉があり、なんらの戸惑いはない。ところが孫も一緒の場合は、この言葉の用い方に戸惑いをおぼえた。そのためやむなく、二人一緒の場合は来訪が適当かな? と思い、これを用いたのである。実際には娘が孫を連れて里帰りしたと書けば、すんなりするところである。寝起き早々に私は、言葉の用い方に戸惑い文章を書き始めたのである。確かに文章は、事象に最適な言葉を選び当ててこそ、正しくまたしっくりとくるものである。ところが、分かっちゃいるけど、それは私には至難の業(わざ)である。常々、文章にふさわしい言葉の選び出しや用い方の苦悶は、つまりわが非才の証しである。その挙句にはわが非才を晒して、書き殴りの成り行き文を書く羽目になる。娘たちの来訪は、世の中の人の口の端(は)に言いふらされている「来てうれしい、帰ってうれしい」の確かな実体験であった。とりわけ、「帰ってうれしい」の実感は、日常の寸断によりこうむるわが老夫婦の日常生活のペースの乱れ、かつそれによる疲れだった。娘たちは昨夜わが家を離れた。老夫婦は車の尾灯が遠ざかると、素早く茶の間へ戻った。そしてそれぞれが、それぞれの長いソファーに寝そべった。もちろん、共にくたくたの疲労を癒すためだった。明けてきょうの私は、パソコンを起ち上げる前にかたわらの窓ガラスにかかるレースと厚手の布のカーテンを開いた。どんよりとした曇り空の下、山の小枝は大揺れに揺れていた。するとたちまち、こんな言葉を心中に浮かべたのである。すなわち、前兆、前触れ、そして余波である。もちろん、台風十号にからんでの言葉である。きのうの「終戦の日」(八月十五日・木曜日)のNHKテレビは、「戦没者慰霊式典」の模様はごく短く伝えるにとどめて、ほぼ一日じゅう台風十号の接近模様の報道に明け暮れていた。終戦の日にあって、これにはわが腹の立つところがあった。浮かんだ言葉で、台風十号はいまだに途上と思えば、余波ではふさわしくないところがある。だからと言って前兆や前触れと言うには、もはやいくらか薹(とう)が立ちすぎて、これまた当を得ないところがある。これまた、言葉の用い方の難しいところである。結局、きょうの文章は、こんな実の無いことを書いてお茶を濁している。人様から「前田さんは、よく毎日文章が書けますね。わたしなど、はがき一枚を書くのに何日もかかっています」と、言われたことがある。もちろん、謙遜すなわち謙譲の美徳のお言葉である。すると、そのお言葉にたいする応えは、こんな実の無い文章を臆面もなく書いているせいである。小枝の大揺れは台風が過ぎた余波なのか。いやいまだ、前兆や前触れなのか。それともいまちょうど、台風の真っただ中にあるのであろうか。そうであれば大過なく、八月盆が過ぎてほしいと、願うところである。わが非才、もっと具体的には言葉の用い方に翻弄されたこの文章である。  

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