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様変わる「児童教育」

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月25日(木)05時16分12秒
  もはや私は、小学生には戻れない。だから、無関心であってもいいはずである。しかし、日本社会に住むかぎり、無頓着では済まされない。なぜなら、未来の日本社会を担う子どもたちにかかわることだからである。国の舵取りだから、私が懸念するまでもないことくらいは承知している。そのため、いま浮かべていることは、懸念にはあたらない。わが小学生時代と比べて、様変わりつつある学習模様への驚きである。もちろん、これらのことは、メデイアが報じたことの羅列である。一つは、先日ちょっぴり記したデジタル教科書の導入である。一つは、中学校に倣っての教科担任制の導入である。一つは、英語授業の開始である。そして一つは、プログラミング教育の導入である。このことについては、私自身まったく理解しかねているため、インターネット上の記載項目で学習を試みた。【コトバンク 朝日新聞掲載「キーワード」の解説:プログラミング教育】「2020年度から実施される新しい学習指導要領に盛り込まれ、小学校で必修化される。コンピュータープログラムを意図通りに動かす体験を通じ、論理的な思考力を育むとともに、幼いころからプログラムの世界に触れ、ITに強い人材を育成する狙いがある。」(2018-08-09 朝日新聞 朝刊 神奈川全県・2地方)。様変わる小学生授業を浮かべて、私はむかしの児童でホッとしている。未来の子どもたちは、どう育つのであろうか。やはり、ちょっぴり老婆心をたずさえている。バカじゃなかろか、私が気を揉んでどうなることでもない。それでも、気を揉める長い夜である。  

素晴らしい長兄様

 投稿者:大沢  投稿日:2019年 4月24日(水)08時20分40秒
編集済
   今朝の「ひぐらしの記」を読んで幸福感に浸っています。
そこには兄弟愛、友情、心優しい人々に囲まれている前田さん
を思ってのことです。ふるさとの前田さんの長兄様は、「ひぐ
らしの記」の大切な読者です。そして、親友のふうたろうさん、
渡部さんは、「ひぐらしの記」の継続にいつも前田さんを励ま
してくださる恩人です。国分寺にお住まいの次兄様も、前田さ
んの大切な御兄弟です。そんな方々に囲まれた前田さんのお人
柄もまた素晴らしいからだと思います。
 身勝手などとおっしゃらずに、どんどんお書きください。そ
れを読ませていただく私たち読者は、どんなにか幸福感に浸れ
ることでしょう。「ひぐらしの記」はそんな存在なのですから。
 

身勝手な成り行き文

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月24日(水)07時03分12秒
  娘は市議会議員選挙で、再びウグイス嬢をやったという。候補者もまた、高位当選を果たしたという。引っ込み思案の私を超えた娘を、素直に褒めてやりたいと思う。まさしく支離滅裂とも言える、どうでもいいことを書いた。しかしこれには、私固有の理由がある。私は生まれてこの方、引っ込み思案の性癖(悪癖)にさいなまれ続けてきた。だから、その遺伝子を覆(くつがえ)した娘を称賛したくなったのである。顧みて、わが人生行路における引っ込み思案は、損得で言えば大きな損の一つである。引っ込み思案の元凶は、もとより才能不足によるコンプレックス(劣等感)である。すると、わが引っ込み思案も致し方ないところではある。こんなことを浮かべながら、書き殴りで成り行き文を書き出している。確かにこんなことでは、書き続けてきた「ひぐらしの記」は、いよいよ風前の灯(ともしび)にある。風前の灯という言葉は、これまで何度記したことだろう。もちろん、わが記憶を超えた夥(おびただ)しい度数である。ところがこれは、単なる言葉の綾ではなく、実際にそういう心境に陥り書いてきたのである。そして、そのつどそれをやっとこさ覆したのは、母の唯一の人生訓すなわち「するが辛抱」に背きたくなかったからである。父は、子どもたちからの手紙を手放しに誉めていた。ひぐらしの記をこんなに長く続けたら、母は喜んでくれただろう。父もまた喜んで読み続けて、継続を褒めてくれたであろう。すると、ひぐらしの記の継続は、親孝行の一端になってくれたはずである。結局、人生の不条理は、親孝行したいときに親のいないことである。現在、亡き親に代わってくれているのはふるさとの長兄(92歳)と、東京都下国分寺市内に住む次兄夫婦(共に88歳)である。きのう(四月二十三日・火曜日)、固定電話へふるさと電話のベルが鳴った。待ち受け画面には、長兄の名が記されていた。私は長兄の名に、ホッと安堵した。長兄訃報の電話ではない。だから、うれしさが爆発させて受話器を取った。双方共にひどい難聴のため、電話のやりとりは長いあいだ沙汰止みになっている。どちらも「元気だろだいね!」「元気なあ!」という、言葉から始まった。次にはこれまた、「聞こえるか?」「聞こえているなあ?」の言葉となった。聞きづらかったけれど私は、受話器を必死に耳に押し当てた。長兄も、そうしているようだった。とぎれとぎれの声は、こう聞き取れた。「あのね。今、『ひぐらしの記』が届いたもんね。まだ、書けきょっとるばいね。偉(えら)かたいね…。おとっつあんがいれば、とても褒めなるばってんねがー…」「もうとどいたの? ちょっとずつ読んでみて!」。このあとに、驚いたことが受話器に伝わったのである。それは、すでにひぐらしの記の一部を読んだと、思える証しだった。製本されたひぐらしの記の単行本の中には、こんな一編があった。それは、ふうちゃん(ふうたろうさん)の伯父さんに嫁がれた、長兄の亡き妻・フクミ義姉さんの叔母さんのことである。長兄はそのことに関して、こまごまと話していたようである。難聴のわが耳には、聞き取りづらいままに受話器を置いた。そのときの驚きは、すでに長兄は文章の一文を読んだのか?。ふるさと電話の受話器を置くと、こんどは携帯電話の呼び音が鳴った。ふうちゃんからの単行本受領の電話である。私は、前日の昼過ぎに長兄とふうちゃんに単行本を送付していた。早速私は、ふうちゃんにこう尋ねた。「ふるさとの兄から、今電話があったのだけれど、もう文章の一部を読んだようである。難聴のせいで、良く聞こえなかったけれど、『伯父さんとフクミ姉の叔母さんのこと』を言っていたようだよ。こんなに早く、読むはずないよね。兄は、耳に輪をかけて目も悪いしね…」「読まれたんじゃんないのかなあー? はじめのほうの15ページに書いてあるから…」「そうかなあ? それにしてもはやい早いね…」確かに長兄は、毎回隅から隅まで読んでいる。長兄はかけがえのない親代わりであり、後継をになうふるさとの守り本尊である。長兄の長生きにひぐらしの記が役立つかぎり、私には書き続けなければならない恩返しの義務がある。身勝手な成り行き文で、ほとほとかたじけない。  

庭中の草取り

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月23日(火)06時40分6秒
  きわめて狭小ながら、ことし一度めの草取りを終えた。草取りは、秋までに三度か四度強いられる。そのたびに、わが心身を脅かす難事である。ようやく萌え出たばかりで、強く抵抗するのをムキになって引き抜くことには、もちろん忍びない思いがある。しかしながら同情の余地なく、総浚いにしなければ空き家同然になる。このとき胸中に浮かぶのは、やがて草取りさえできなくなるわが身への懸念である。いや、最も痛切感をともなうのは、わが亡きあとの庭中の荒れ放題である。草取りひとつとっても、老い先短いゆえに心痛むばかりである。半面、草取りは無心になれば、最も心安らぐひとときでもある。例年よりいくらか早い草取りを敢行したことには、こんな理由がある。一つは、草の根の柔らかいときにとっておこう、という魂胆である。そして一つは、気に懸かることは早く終えよう、という思いである。幸運にもピロリ菌撲滅以降、それまで持病として苦しんでいた腰痛は、完全に遠のいている。主治医さえ思い及ばない、ピロリ菌撲滅の副次効果である。それでもわが草取り風景には、なさけなさがつきまとっている。それは100円ショップで買い求めた、プラスチック製椅子を引きずってのヨチヨチ前進である。農家出の私には、恥ずべきあるまじき行為である。草取りには、地中のミミズとの出遭いが必然である。ミミズは硬い土壌を柔らかくしてくれる益虫である。かてて加えて私の場合、ミミズは童心を呼び戻してくれるものの筆頭に位置している。すなわち、ミミズの餌が無くては、ふるさと・内田川の魚釣りの楽しみは、まったく叶えられずじまいだった。このため、草取り中にミミズに出遭えば、わが心中には感謝の念と同時に、罪滅ぼしの思いが渦巻いている。実際にもこの思いは、動作や行為に表れている。もとより、決して潰すことはしないどころか、再び地中にもぐるまで指先を休めている。そして、ミミズに関し、今さら気づいたことを記すためにこの文章を書いている。それは、春先のミミズはまだ生まれたてなのだろうという、わが観察である。確かと思える証しは、身が細くからだ全体にピカピカと光る艶(つや)があることである。すると私は、生まれたてのミミズを虐めてはならないという、思いになる。もちろん、武士の情けではなく、遅すぎた罪滅ぼしである。秋口のミミズは図体も大きいけれど、何より腹が立つのは、逃げることなくふてくされてのそべっていることである。それでも私は、干からびないように土を掛けてやっている。罪作りも罪滅ぼしも、万物の霊長と崇められる人間の哀しい性(さが)である。  

自然界の「恩に着る」夜明け

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月22日(月)06時33分16秒
  四月二十二日(月曜日)、夜明けが訪れている。きのう(四月二十一日・日曜日)とほぼ同時刻に起き出して、前面の窓ガラスを通して大空を眺めている。そして、きのうの文章『気分の良い夜明け』の追記を試みている。すると、真っ先に心中に浮かんだのは、(良い気分は二日と続かなかった)、という思いである。具体的には、就寝中悪夢に魘され熟睡を妨げられたことである。かてて加えて夜明けの空は味方せず、きのうとは打って変わりどんよりとしている。このため、今朝は「気分の滅入る夜明け」である。まさしく、きのうの夜明けの気分は、突然訪れた僥倖と言えるものだった。気分の良さに後押しされて私は、文章は短く結んで道路の清掃へ向かった。まったく久しぶりの行動だった。顧みれば年明けて四か月余の間に、三度ほどの行為だった。私自身、ずる休みを決め込んでいたことではない。落ち葉のない季節にあずかっていたのである。きのうとて、落ち葉は影を潜めていた。しかし、粗い舗装道路には、山桜の花びらや木の芽の破片がくだけて入り組んでいた。そのため、このところの私には、(道路、見た目、汚いなあー)の思いはあった。だけど、秋の落ち葉の季節のように仕方なく、道路へ向かうほどの汚れではなかった。過去二度の掃除の中で試みたのは、萌え出していた側溝周りの草取りだった。きのうの行為も、ほぼこれに似ていた。しかし、長くうっちゃっていたので草は、根強く入り組み地面には色を濃くしていた。それでも、散歩にめぐる人たちには、気になることもない程度の草の緑である。ところが、このところの私には、いくらか気になるところがあった。そんなおり、気分の良い夜明けがわが行動をそそのしたのである。いや、そそのかしたという言葉には語弊があり、まったくわが意に反した言葉である。実際には、気分の良い夜明けがとんでもない行為をもたらしてくれたのである。「恩に着る」とは、こういうときの粋な言葉であろう。すなわち、夜明けの気分の良さにさずかり、私はほぼ四か月余の罪滅ぼしを成し得たのである。時間的には五時半頃から朝飯しを先に延ばし、八時半頃まで約三時間をかけた。行為では側溝に入り組んでいた草の根まで、文字どおり根こそぎ取った。道路側壁の石垣の間の草も、跡形なくすべて引き抜いた。粗い道路にこびりついていた花びらや木の芽は、しゃがんで指先でこすり取った。この光景は、わが目にも気違い沙汰だった。しかし、ほぼ四か月間の罪滅ぼしと思えば、悔いのない重労働だった。そして、この行為には飛びっきりのオマケが付いたのである。疎遠になりがちだった散歩常連の人達と、ほがらかに会話を交わし得たのである。大袈裟に言えば、「旧交を温める」ことができたのである。ドンよりしていた大空には、朝日が昇りはじめている。だけど、今朝は道路へ向かうことは免れて、実がなくとも普段の長さの文章にありついたのである。悪夢の内容は、まぼろしになり始めている。時間が経てば、気分の良い夜明けになるだろう。平成時代の終わりに向けて、カウントダウンは、ひとけた九つである。  

気分の良い夜明け

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月21日(日)05時57分27秒
  四月二十一日(日曜日)、まったく久しぶりに悪夢に魘されることなく、熟睡できた夜明けが訪れている。熟睡できた理由はわからない。たぶん、きのう(四月二十日・土曜日)の卓球クラブの練習の疲れであろう。いや、こっぴどくしごいてくれた仲間のおかげであろう。理由はともあれ、すこぶる気分の良い夜明けに恵まれて、もちろん爽快この上ない。かてて加えて朝日の照らす大空は、雨、風まったく出番のなく、まるで真空状態のようなのどかさである。こんなおり、椅子に座すのはもったいない。そのため、今朝の文章は沙汰止みを決め込んでいる。その理由は、これまたまったく久しぶりに、朝の道路の清掃に向かう気分になっているからである。まったく身勝手なわが意思だけれど、僥倖と思える気分の良さには勝てない。ウグイスは、すでに高鳴きしている。ウグイスの声はなんと澄明なのだろうと、ありがたくも不思議な思いである。なぜなら、難聴の耳にも障りなく聞こえてくる。案外、気分の良さが後押しをしてくれているのかもしれない。平成天皇陛下時代は十日を残すのみとなり、きょうからカウントダウンの始まりである。こんな気分の良い日が十日続いて、十日間の連続休暇を迎えたいものである。欲張りをしたい心地である。きょうも、卓球クラブの練習に行くつもりである。柳の下のドジョウ狙いだけれど、しかしあすの夜明けの気分は未知である。結文、かたじけない。  

自然界はのどかな夜明け、でも…

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月20日(土)07時00分21秒
編集済
  四月二十日(土曜日)、明るく朝日の射すのどかな夜明けが訪れている。どうやら鼻風邪をひいたようだ。休養を決め込んで、寝床に横たわり朝刊を広げていた。鼻風邪のせいで気分はすぐれず読む気はない。朝日新聞・朝刊の大見出しには、「一人暮らし高齢者896万人」(社会保障・人口問題研 2040年推計)。小見出しには15年比43%増、東京116万人とある。記事は読まない。記事の内容は読まずともわかっている。「高齢者運転 また悲劇」の記事もある。こちらはちょっとだけ読んだ。87歳の人の運転する車が暴走し、母娘(31歳と3歳)が亡くなったという。ほかにも負傷者が出ているという。ネット上では、東京・池袋事故として非難噴出である。現下の高齢化社会の哀しい現実である。私は2040年まで生存することはない。しかしながら現在の社会とて、すでに似たり寄ったりの生きることの厳しさにある。こんなおりだから、あえてのほほんとしたこと書きたくなっている。また、それを咎める人もいないはずである。おとといと、きのうの延長線上の追記は、こうである。きのう(四月十九日・金曜日)のわが買い物には、予告に違わずタケノコ(福岡産)があった。このほかには想定ラインにのっとり、ノブキ(鹿児島産)、グリンピース(愛知産)も買った。柑橘類ではデコポン(熊本産)を買った。衝動買いでは最高級「極」と表示のパイナップル(台湾産)を買った。高額のパイナップルを所定の籠に入れるときには手が震えた。想定外の衝動買い特有の手の震えだった。それでも、総じて満足のゆく買い物だった。パイナップルを輪切りにして、味を占めるのはきょうの楽しみである。年寄りの身で、楽しみにありつけるのはもはやこれくらいである。  

春特有の御飯(混ぜ御飯)

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月19日(金)06時27分55秒
  「ひぐらしの記」の題材は、非難を恐れておのずから自己制御するところがある。もちろんこれは、私日記ならず公開しているため、致し方ないところである。そんな中にあって食べ物のことは、きわめて無難な題材である。きのう(四月十八日・木曜日)の私は、『春は「花より団子』の表題で、「木の芽御飯」(木の芽寿司)に至るまでの、わが好みの混ぜ御飯(炊き込み御飯)のいろいろを書いた。このため、再びそれらことを書けば、冷や御飯や冷凍御飯の温め御飯のように蒸し返しとはなる。それでも書かずにおれないため、同様の題材で書き始めている。かたじけない思いつのるけれど、御免蒙りたいものである。きのうは、この春二度目のグリンピース御飯だった。ところがこの先、三度も四度もありそうである。それほどに私は、グリンピース御飯の美味しさに味を占めていたのである。ふるさと便によるたまわりもののタケノコを用いてのタケノコ御飯から始まり、海産のアサリ御飯はすでに何度か食べた。そして、グリンピース御飯へつないできたのである。この先の真打の登場には妻と、これらに山椒やノブキを混ぜた木の芽御飯をもくろんでいる。言うなれば、春の山菜の恩恵にさずかる「春特有の御飯」の堪能である。これらは御飯自体の美味しさに加えて、ふるさとの味、おふくろの味、すなわち郷愁や母の面影をよみがえらせてくれる。さらに、最も身近なところでは、グリンピースのみならず自作の春野菜の収穫で、日々ビールグラスを傾け合い、口、喉、胃、を潤されている渡部さんご夫妻(埼玉県所沢市ご在住)のお姿が浮かんでくる。渡部さんは会社同期入社のお仲間であるけれど、奥様も職場は違え優しさを知りすぎている。結局、「春特有の御飯」すなわち「混ぜ御飯」の特長は、食感だけではなくふるさと慕情や温かい人情がかぎりなく混じ合っていることであろう。きょう(四月十九日・金曜日)の買物のイの一番はタケノコである。木の芽御飯まで行き着くまでには、まだタケノコ御飯、グリンピース御飯が続きそうである。やはり、「春は、『花より団子』」である。  

春は「花より団子」

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月18日(木)07時14分2秒
  目覚めて起き出してきたら、すっかり夜が明けている。時計の針は五時半を回っている。朝日の輝きは薄いけれど、春霞(はるがすみ)たなびくのどかな朝ぼらけである。昨夜(四月十七日・水曜日)のナイター、阪神タイガース対東京ヤクルトスワローズ戦(東京・神宮球場)は、延長戦最終回の十二回までになった。それでも決着つかず、二対二で引き分けた。私は、試合経過を観ながら最後までテレビ観戦する羽目となった。その祟りは就寝時間に現れた。あわてて、十一時半近くに床に就いた。かねて、懸念していた長引くテレビ観戦だったのである。今や、弱いタイガースにヤキモキしていては身がもたない。私は淡々と試合経過に観入っていた。その挙句には、(最後まで観ずに、早く寝ればよかったな!)と、遅寝(おそね)を悔いた。桜はところどころに遅咲きを残すものの、葉桜模様の加速をきわめている。花の季節は、明らかに晩春から初夏の花に変わりかけている。わが家周辺で見る光景には、シャクナゲやツツジの出番到来である。わが買い物でも変化が続いている。御飯に限れば、タケノコ、グリンピース、海産のアサリなどが、食材として春の香りを恵んだ。これらは、すでに何度か口内を賑わしている。満を持して、これらに加わったがノブキである。ノブキは、わが夫婦共に好む春の山菜である。いや、山菜と言えるかどうかは疑わしく、今や栽培物らしい春野菜の一つと言えそうである。これまでのところノブキは混ぜ御飯には加わらず、きのうから醤油煮の御数の座に就いている。おととい買ったノブキには鹿児島産の表示がある。時季物のタケノコとノブキの売り場への出回りは、おのずから期間が短く制限されている。このため、これらのわが買い物には焦燥感をともなうところがある。タケノコはふるさと便で恩師平先生よりたまわり、すでに十分堪能できている。しかし、ノブキの出回りにより、この先一度だけは売り場から買うことになりそうである。おとといの(四月十六日・火曜日)の私は、ノブキを七束(一束・百八十円)買った。きのう、妻はそれを大鍋で醤油煮にした。この先、ノブキが売り場から消えるまで、こんな繰り返しになりそうである。なぜなら、馬の飼い葉(飼料)のごとく、私は三度の御数を食べるからである。例年のわが習わしでもある。このうの二人は、こんな会話をした。「タケノコ、まだ売り場に並んでいるから、こんど買ってくるよ。タケノコ御飯の締めは、ノブキや山椒を混ぜた『木の芽御飯』だね」「そうね。パパ、タケノコ買ってきてよ!」春の楽しさは、さまざまな食材に味を占める「花より団子」である。  

愛惜「赤チン」

 投稿者:前田  投稿日:2019年 4月17日(水)05時35分34秒
  よくもわるくもむかし親しんで、世の名から消えてゆくものにはかぎりなく愛しさつのるものがある。それらの中でも富山の配置薬や、身近に頻繁に用いていた市販薬には格別の愛しさがある。もちろんそれは、薬の名と同時に、母の面影が懐かしくよみがえるからである。現在の私はこの配信記事を読んで童心に返り、「赤チン」を塗る母の姿をほのぼのと偲んでいる。このことでは、「ありがとう、『赤チン』」の思いを込めて、配信ニュースの引用を試みている。【消毒薬「赤チン」来年で生産終了 国内唯一のメーカー】(毎日新聞 最終更新 4月16日 21時43分)。傷口に塗ると赤色になることから「赤チン」の愛称で親しまれた消毒薬「マーキュロクロム液」の国内生産が2020年末で終わることが16日、分かった。日本で唯一のメーカーとみられる三栄製薬(東京)が生産をやめると明らかにした。昭和世代になじみ深い製品がまた姿を消す。赤チンはかつて家庭や学校の常備薬の定番だった。しかし、水銀が原因の水俣病が公害に認定され、生産過程で水銀を含んだ廃液が発生することから、1973年に原料の国内生産が終了した。三栄製薬などは海外から原料を輸入して生産を続けたが、71年に無色の消毒薬「マキロン」が登場し、売れ行きは落ち込む一方だった(共同)。父の姿を偲ぶ薬剤は、『救心』(救心製薬)である。幸いこちらは、いまだ現役バリバリで社会に貢献中である。そのため、愛惜には至らないけれど、心臓病を患っていた晩年の父の姿を偲ぶ薬剤である。  

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